スピリチュアル探求①

充満する

いつも記事に書いている部分。それは「マインド」の部分です。

私はこの「マインド」がとてもアプローチしやすいからなのですが。

なぜマインドの部分がアプローチしやすいかというと、確固たる意思ほど強固なものはないと感じるからです。「ココロ」=「感情」でいうと外的要素にかなりの影響を受けます。外的要素とはつまりは「自分以外のモノ」。しかし、マインドは内なる自己です。マインドも外的要素の影響は受けますが、でもそれを「選ばない」とか「自分はそうではない」とかを自覚していけるのがマインドなのです。

もちろん分離しているわけではなく「ココロ」=「感情」を素地にしていることも多いです。ですがそれを「さぁどうしようか」と見つめるのが「マインド」=意思なのです。

スピリットの全体像の中でどれもが周りへとエネルギーを振りまいています。

繋がっていますから「ココロ」=「感情」を元にした「想念」もまたエネルギーとしてそのヒトの周りに充満しています。

・・・ですから、「感情」でもし「好きなヒト」と思っているとそれらは自分の周りに充満します。もし反対に「嫌い」という感情があればそれもまた充満します。

私が「マインド」からのアプローチをするのは、前述したように外的要素を受けやすい「感情」を元にしていると「こうしてくれないから」=「嫌い」→それを想念として充満させる・・・ということが至極幼い感じがするのです。

千差万別のヒトビトがいる中で、一体どれだけのヒトが「あなたの思い通り」なことをしてくれるのでしょうかね。他者である人々が自分の願いどおりに動いてくれないことをもとに「嫌い」とか「嫌な人」とか「想念」を振りまくのは幼いと感じるのです。

「本当にそのヒトは嫌なヒトでしょうか?」と感情ではない部分できちんと見つめると「想念」を幼いまま振りまくことは少なくなっていくでしょう。

「大人」になるにつれ様々な情報や社会という波やいろいろなヒトと関わる中で培われる「あなたではない」側面を冷静に見つめるには「ココロ」=「感情」という外的要素の影響が強い部分からではとても難しい。

「みんながやっているから」というのがまさにその極地ですね。

「マインド」とは信念とか信条とかです。つまり外的な環境や状況がいくら変わろうとも確固たる「意思」として「自分を生きる」ことができる基盤です。それらをきちんと自覚することで夢を掴んだり、困難に出会ったときに乗り越えたりができるのです。

「マインドをコントロールできるのはあなただけです」

外的要素であるはずの情報などを安易に信じ込み、自分で考えることを放棄してしまうことほどもったいないことはありません。情報がどうであれ「あなたはどうするのか」ということをきちんと自分で選択していくことがとても重要だと感じるのです。

そのマインドの中で多くのヒトが「ひかり」を選択し、「愛」を選択しそしてそれをエネルギーとしても周りに充満させられたら素敵ですよね。

「何を思っても自由でしょ」・・・確かに自由ですよ。

でもね・・・あなたが感情の部分でイライラしていて、愛するヒトには笑っていて欲しい、なんてやはり矛盾していますよね。思っていることすら周りにエネルギーとして充満することを知れば、愛するヒトに笑っていて欲しいからこそ自分も笑っていたい、となるように感じます。

愛するヒトを「愛」というエネルギーで包み込む。想念でもエネルギーでも。それを選択するのが「マインド」です。

「本当は嫌な人ではなかった」という側面を気づくことで、「嫌い」という想念を充満させることがなくなっていくのです。

自分は一体どんなものを周りに振りまいているか、再考あれ。

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癒し

「癒されたいなら癒しましょう」

愛するヒトに笑っていて欲しいなら、あなたが笑っていることです。「あなたといると私嬉しいの!」と笑っていてくれたら嬉しくないですか?

「癒されたい」と多くのヒトが最近は「癒し」という言葉を使います。肉体的な疲れを癒すことや、もてなされて大事にされることでも癒されることでしょう。

本当に自分自身が癒されたいのならば、自分で自分を癒すことです。

あるヒトがこう言いました。「癒されたい。だんなも子供も私を癒してくれない」と。

・・・「私を癒して!」という強い欲求がありました。しかし、強い欲求はエゴとなり「これこれこうゆうカタチで」という枠を作り上げます。例えば、「疲れて帰ってきているんだからご飯ぐらい炊いておいてくれればいいのに・・・・・。」でも、実際はお子さんもお母さんが仕事だとお留守番をきちんとしているといいます。だんなさまもご飯は炊いておいてはくれないけれど、洗濯物をたたんでくれていたりしているといいます。

「ご飯を炊いてくれていない」=癒されない・・・・という枠を作り上げてしまっていたのです。そのヒトの望むカタチではないですが、お子さんもだんなさまもお母さんのために何かをしてくれているのにそれに気がつかないのです。

つまり・・・・「癒されるのはあなた自身です」ということ。

癒されたい、というけれど・・・ただ周りに在る愛を感じ取れていないだけ。それらを感じ取れるようになるにはまずは自分自身が自分を癒してあげなければ。枠を取り除き、自分の身の回りに在る小さな小さな愛を見つけていくのです。そうすることで癒されていくのです。

前記事で書いた「愛されたいなら愛しましょう」も同じです。他者への関わりの中で、他者に向けての行動だけでなく、愛されたいなら「自分自身を愛しましょう」ということです。

自分自身を愛しているからこそ、愛される自分自身へと変容していける。

自分を愛しているからこそ、他者とのかかわりの中で自分を愛に満ちた関係に囲まれるように他者をも愛することが出来る。

「情けは人の為ならず」と同じ様なことです。

文句ばかり言って「してもらうこと」ばかりを望む・・・・「あなたはそれに見合った行動をしていますか?」ってことです。自分が「して欲しいカタチ」ばかりを要求し、果たして相手はそのカタチではない形で愛を表現してくれてはいませんか?ってことです。

10人いれば10通りの愛の表現の仕方があります。表現が不得手なヒトもいます。不器用なヒトもいます。シャイだったりもします。

「自分自分」で「自分が望むカタチ」ばかりを要求し、カタチが違う愛の表現を見逃してしまうことほどもったいないことはありません。「そうきたか!」ぐらいに楽しんで日常の中の小さな愛を感じ取っていくのもまた楽しいです。「面白い表現の仕方だねぇ」なんて楽しんでもいいのです。

どんなことも自分自身を癒す出来事として捉えられます。

癒したいなら癒しましょう。自分も他者も。

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自分で選択するという事②

前記事の続き。

至極単純なことです。

「自分がされたら嫌なことはヒトにもしない」

ただこれだけです。自分がされたらすごく不快なことなのにヒトには平気でしてしまう。・・・それって矛盾してませんかね?いつでも、「それが自分だったら?」と「慮る」ことです。

誰だっていじめられたくはないし、無視されたくない。嫌われたくないし仲良くしたい。なのに、自分ではヒトをいじめていたり無視したり。嫌ったり仲良くしなかったり・・・・矛盾していると感じませんか。

「好かれたい」と思っているのに自分ではヒトを嫌ってばかり。「愛されたい」と思っているのに自分では「愛する」ことをしていなかったり。「信じて欲しい」と思っているのに自分では「信じてあげない」だったり。

自分がしていることがどんなことなのか。

自分がした選択に矛盾はないのか。

それに見合った行動を自分はしているのかどうか。

自分がされたくないことを自分はしていないか。

自分の身の回りの環境は自分自身で引き寄せています。矛盾が多ければ多いほど「自分が望む環境」を引き寄せるのは難しくなるのです。

愛されたいなら愛しましょう。

信じて欲しいなら信じましょう。

許されたいなら許しましょう。

癒されたいなら癒しましょう。

ただそれだけです。

自分の中の良心というひかりを見つけ出し、それに従う。それを続けていると「案外、私って良いヤツ?」みたいに自分で自分をほめてあげたくなったりします。なぜなら、良心はあってもそれを実行するとなるととても難しいことに気がつくからです。

それを実行する時に、必ず「他者の価値観」と出会うからです。ヒトはそれぞれ個々の価値観を持っています。10人いれば10通りの正義があり、10人いれば10通りの幸せ観があるのです。自分の良心に従って行動しても必ずこの「個々の価値観」と出会い、けして「自分にとっての幸せが他者の幸せとは限らない」ことを知ることとなるのです。

それらと出会いながらも、自分の中のひかりを大切に選択していくことで「調和」が生まれます。「自分がされたら嫌なこと」は「しない」と選択をし続けることで「慮る」を学ぶからです。慮るを学んだ先にあるのは「調和」なのです。

道のりはヒトそれぞれ。

でも、ある時、ひかりの選択をし続けることで「清清しく毎日を送っている」自分に気がつくことが出来ます。良心に従うことで「罪悪感」や「後悔」がないのです。だからこそ清清しい。いつのまにか「ポジティヴ」な選択をし続けることが日常になって行きます。

自分で自分の中で何を選択するか。

それが自分の人生をどうゆう道にするかが決まってきます。

矛盾多き選択を見つめなおし、自分の中の良心を育てていく。

自分の生き方を選ぶのもまた自分自身です。

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自分で選択するという事

最近テレビを賑わせている事案。

「夫に進められた」からとその事実を認めたといいます・・・・。

先日同じ様なことが職場でもありました。別に薬関係ではないですが。

「あの人がやっていたから」とそれを真似して暴虐に出る、というようなことがあったのです。

・・・「自分でそれをやると決めた」という事実を多くのヒトは自覚していないことが多いです。たとえ「夫から進められた」としても「やらない」という選択も出来たはずだし、「あの人がやっていたから」といって「自分はそれをやらない」という選択肢もあったはずなのです。

「自分で自分が何をするか決めている」という事実を知ることが自分の人生への責任を負うことに繋がります。

「一体自分が何をしていて、一体自分が何を選択しているのか」

「他者との分離」は「自分で全てを選んでいる」ことを知る作業です。第二次成長期を向かえ、自我が形成されるのが10歳以降です。「自我の確立」。ですが、それまでの間に様々な「他者」の価値観を基盤として教え込まれます。

「大人」となったころにいったんそれらを見つめなおすと「自分」を自覚できるのです。

「自分」という自我をしっかりと自覚すること。何が気持ちが良くて何が気持ち悪いか。何が不快でなにが快か。なにが嫌で何が好きか。何が心地よくて何が幸せか。たとえ、周りの全ての人がどう言おうと「自分」の中での感覚を自覚するのです。

「親」が何を言おうと、親友が何を言おうと・・・それらは全て「他者」であることを知ると、きちんと「自分」を自覚できます。

「あの人がやっていたから」と「自分もやる」・・・・それがどんなことなのか知らないはずはないのです。・・・・ですが、前記事でも書いたように「何が大切か」を知らないヒトが多くいます。自分でそれがどういったことなのか判断できないのです。

ヒトには少なからず「良心」があります。必ず。それを指針にすればいいのです。

自分の中でいろいろと考え事をしていると「ふたり」(もっと多く感じるヒトもいるとは思いますが)自分の中で「声」がすることを自覚出来ると思います。

「これをやろう」と考えた瞬間に「でも・・・」とか「そうだ、もっとこうしよう」とかいろいろな考えが浮かんでくるでしょう。その中に「相反する声」が必ずあります。「これをやろう」「いや・・・でも」と。その中の「ポジティヴな声」が良心、と言えるかもしれません。

何かなんとなく悪いと感じることを「これはやっていいことなのだろうか」と考えた時に「やらないほうがいいんじゃない?」と囁いてくれる声。それに従えばいいのです。「やらない」と。

反対に良いことをしようとしているとき、「これはやっていいのだろうか」と考えた時に「でも、それをしたらあのヒトがどう思うかしら?」みたいな囁きも聞こえます。これは「自分だったらどうして欲しいだろう」と振り返ればいいのです。そして「やってくれたら嬉しいな」と思えることならば「やる」を選択すればいいのです。

本当にただそれだけのことなんです。

ヒトには必ず良心があります。それはつまり「ひかり」の部分。

自分の中のその光の部分に声を傾け、それに従う。そうすることでどんどんひかりの選択ができるようになってきます。

もし、自分の中のひかりの部分で行ったことが良い結果を生み出さなかったら・・・なんていう「おそれ」は必要ないのです。それが本当にひかりの要素があるのなら、それを実行した後にあなたは必ず「嬉しい」から。自分の良心にそってそれを行う。それをたとえ他者が認めてくれなくても、そこにはあなたの中の「愛」があったはずですから、それらはカタチは変わっても必ず他者にも通じます。

清清しい気持ちでそれを行った瞬間をきちんと自分で自覚することで、どんどんとその選択ができるようになってくるのです。

話題のヒトの中にも「これをやったらどうなるか」という「声」が必ずあったはず。でも、それに従うことはなかった。ですから自分でその責任を取るのです。

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「スピリチュアル」②

ある友人が話してくれました。

ある場所に「老人がいつも座っている」そして、友人にはなんだかその老人はウキウキしているように感じていたそうです。しかし、他の人は「あそこを通るとぞわってするよね」といっていたそうです。「こわいよね~」と。

「同じモノ」なのに感じていることが違うのです。「目に見えないこと」が「こわい」と感じる人や「死」を「恐い」と感じている人、「死」が「すべての終わり」と感じている人は、その老人を「恐い存在」として感じてしまうという事です。

しかし、その老人は「ウキウキしている」のです。肉体はないけれどなにやらにウキウキしているんですね。

人間は「目に見えるもの」で測る部分があります。目に見えていること、手に触れられること・・・それらで「あぁ、ここに本当にあるんだ」と実感できる。そして安心する。

確かに「笑っていたよ」と伝えられるより、目の前で「笑って」いるところを見られたほうが安心します。ですが、「笑っていたよ」という事実もまたそこには「在った」はずなんです。自分では見ることはできなくても「笑っていた」という事実はある。ならば、それを信じればいいだけのことなんです。

目には見えなくともそこに「在る」ということを信じること。

多くのヒトが「何を」察知するか「選べない」と思い込んでいますが、そうではないと感じています。多方面からのアプローチ法を見つめることで、自分の何を伸ばすかや自分の中の整理されないことが見えてきて、解決法も広がっていきます。

目には見えない領域のことばかりをスピリチュアルがしているかというと、まったく逆で・・・「目に見えるように」「分かりやすくするために」ある分野だと私は感じています。訳がわからなかった事象がそれらを知ることで「分かりやすく」なるんです。

「何故、これが起こるのか」「どうしてこうなのか」とか・・・それらは、分かりやすくなります。

肉体だけ、ココロだけ、マインドだけ・・・・では分断された情報が「総括」することで見えてくることがある。それを現しているのが「スピリチュアル」という分野。

多くのヒトが上記の「ウキウキしている老人」の側面を察知できるようになったら・・・きっと素敵ですね。先に肉体を離れた先人たちが私たちに伝えたいこと・・・愛に満ちていることを知ることが出来ますから。

(熊吉じいちゃんはシロと共に時々やってきます 笑。「楽しめよぉ~」と笑っています)

よく、「過去世」という言葉がスピリチュアルの一面として取り上げられますが・・・私の感覚ではそれは「在る」のでしょうが「それはそれ」という感じがします。

なぜなら・・・「山田太郎」という今世を生きているという事実。その「山田太郎」さんという人生は「今だけ」ですから。300年前にも同じ環境同じ状況、同じ「山田太郎」であったことはないのですから、「過去世」にどんなことがあろうと「今世」を生きているのは「山田太郎」さん自身なのです。特性として何に興味を持つかとか嗜好などへの影響はあるかもしれませんが、それはあくまでも「情報」であって「知る」という行為以外には何もないと感じるのです。知った先に生きるのはやはり「山田太郎」さん自身。

過酷な過去世があったとして・・・・だから今世でもそれが尾を引いている・・・・。それで?ってな感じです。解決してくれるのは過去ではなく「今」生きている自分ですよね。だから「知る」以上のことはない、ので「それはそれ」と感じるのです。

「過去世で悪いことをしたから今世では私は不幸なんだ」・・・・・だから?「今」生きているのは「あなた」でしょうが。今の不幸を過去のせいにして・・・「今何をするか」の言い訳にしてはいけませんよね。

都合のいいようにスピリチュアルを使おうとしてもそれは難しいでしょう。何かの言い訳や何かから逃げるためにスピリチュアルを使っても突きつけられるだけです。「自分」を。

上手くそれらと付き合い、自分の人生を豊かにするモノとして関われる人が増えてくれると嬉しいな、と思います。

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うんとね・・・「スピリチュアル」

また、こう聞かれました。「スピリチュアルって霊とかそうゆうのですか?」と。

ふむ・・・。どう説明していいか、正直いまだに自分でもこれといったような上手い言葉は見つからないのがこの「スピリチュアル」を説明することです。

みなさんがよく言われる「霊」・・・ってなんでしょう?「幽霊」ですかね?「すでに死したもの」を総括する言葉なのでしょうが・・・・。

「肉体」「精神(ココロ)」「意思(マインド)」と「エネルギー(オーラも含みます)」を総称したのが「スピリット」です。「肉体」が物質界「カタチあるものが見える世界」に属する「器」です。「ココロ」=感情、「マインド」=「意思」、「エネルギー」=想念・言霊・そのスピリットの特性を映し出すエネルギー・・・となります。それら全てで「スピリット」です。

「肉体」からのアプローチで代表的なのは「武道」です。「ココロ」からのアプローチは「心理学」「宗教」に当たるでしょうか。「マインド」は経験や信念・信条、「エネルギー」はそれらを繁栄するカテゴリーと本来持っているカテゴリーとに分かれます。

スピリチュアルとはそれらを多方面からアプローチするもの・・・とでも言いましょうか。

武道で肉体と共に様々なものを培ったとして・・・そこで「マインド」や「ココロ」の部分で上手く廻っていなければその武道の力を「暴力」として発揮していきます。「ココロ」の部分でどんなにアプローチしても「マインド」の部分で「こうしよう」と意思を持たなければそれも上手く発揮されません。

今、世の中にある様々なことは「ひとつ」としてはそれらを極める方向にきています。しかし、例えば心理学を追求してもそれはあくまでも「心理学」の枠を出ないのです。「心理」というカテゴリーは極められても、それが全ての解決に向かうとは言い切れないのです。

だから、今「スピリチュアル」という分野が表に出てきているのだと思います。総括してアプローチしていくこと。「大は小をかねる」なのです。

さて、「霊」ですが・・・多くのヒトがイメージしているものは「ある側面」に過ぎません。

「カタチあるものが見える世界」である「物質界」に近い部分では「残された家族」や「恨み」「後悔」なども色濃くあるでしょう。しかし、そのスピリットの「天」に近い部分では「そんなことどうでもいい」のです。「根」ともいえるスピリットの先端は「根源界」にあります。まぁ、分かりやすく言えば「源」でしょうか・・・。根源界に近くなればなるほど「スピリット」としての理になるのです。そうすることで「物質界」でのことは・・・「どうでもいいこと」なんですね。

みなさんが「霊」と感じるものは「物質界」により近い部分を察知しているに過ぎません。しかし・・・・根源界に近い領域を察知すると・・・・「よきかなぁ~~」というひかりに満ちています。「人間」とか「お金」とか・・・・そんなことは「どうでもいいこと」なのですね。ただただ「在る」エネルギーとなっている部分も皆さんが「霊」と称する「モノ」のある側面として存在しているのです。

広く広く多方面から見つめていくもの・・・それがスピリチュアル、でしょうか。

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とても大切なもの

先日、実家でこんな話をしました。

「どうして今の日本人は『一番大切な部分』が分からないのだろう?」というような話です。

ふと・・・・昔に思いを馳せてみました。そう、2千年近くのこの日本という国。今という近代から現代付近までを除いた日本という国。

島国で木々豊かな自然が覆っていたのでしょう。

ヒトの暮らし。それは「やおろずの神」とうたわれるほどに「自然」と共にあった暮らし。「おかげさま」で「今年も無事に過ごすことができました」。「おかげさまで」「子が無事に成長しました」・・・・・。

昔は薬もなかったろうし、今で言う「家族計画」という子作りのいろいろなことも無知であったでしょう。夫婦となりたくさんの子供を生み、けれど無事に育つ子はそう多くはなかったはず。仮に無事に育ったとしても今よりも農作物へも自然の淘汰にあったことで、口減らし・・・なんていうことも在った時代も長かったと想像できます。

単純に「生物」と考えると、サバンナやアマゾンなどでは「弱き生命体」は生きてはいけません。早くに他者に食されるか、地の栄養と化すことでしょう。ヒトもまた生物、です。長い長い歴史の中で「今」に繋がる生命は「弱き生命体」ではなく「強き生命体」の子孫という事になります。

では・・・ヒトで言う「強き生命体」とは・・・。きっとそれが「大切なものは何か」を知るものだと感じます。近代ごろから薬やヒトが生きる方法は多様化し、現代では幼くして死してゆく命は難治の病や事故以外では見受けられないほど、ほとんどの子供は無事に成人を迎えられます。

・・・・かつてなら,長くを生きることは出来なかった命が今はほとんどが永らえる。

ふと、昔話のような感覚で「田舎」を想像しました。

例えば、「長男」にあとを継がせる・・・・けれど、その長男が「大切なものは何か」を知るものではなかったら「家はつぶれる」のではないだろうか、と。かつてなら「幼くして長男が亡くなり次男が継いだ」という時代があった、のではないかと。

今の世の中にはその「大切なものは何か」を知らないモノがいます。

「大切なものは何か」・・・・「共生すること」なのではないかな、と感じます。

日本という島国で、「共生する」ことが出来なければ「共に生きる」ことは難しい。一見「強きもの」とは覇権争いのように、狡猾か暴虐かなどという「力」を想像しがちだけれど、この日本という土地柄は「共生する能力」が高いものが「強きもの」なのではないかと感じるのです。なぜなら「おかげさま」で「生きています」という自然への畏怖と感謝の国だから。

現代は「大切なものは何か」を知らないモノが多くいます。だから「共生すること」に無頓着で「自分の幸せだけが大切」なヒトも多いのではないか、と。本来なら淘汰されてきた命。日本という自然の中で生きることが難しかった命。「それではここでは生きていくのが難しいよ」と言われた命。しかし、今は「科学」で生きていることが出来る。

けれど・・・「長男」だからと家を継いでも「共生する」という知恵を持たなければ、生き残ってはいけない。「おかげさま」というココロを知らなければ生き残ってはいけない。なぜなら、近代だろうと現代だろうと、昔ほどに自然はなくとも・・・・ここは「日本」だから。やおろずの神々が住まう土地だから。

エネルギーを比べると、こんな感じです。例えば、ミカエルも「陽」の要素を持ちますが「ほわわ~~」って感じですが、アマテラスは同じ「日」でも「照らす」というそのまま「どっかーーん!」て感じです。ミカエルが「陽」のもとに「守護」や「生きる道」を教えてくれるように、アマテラスも教えてくれます。「日」のもとに。ドカーン、シャキーン!と・・・・。

日本の神様のエネルギーは「はっきり」していて「分厚い」感じなのです。

母が「じいちゃんがそう言っていたから」と純粋に「父」である祖父の言いつけを守っている姿を見て、いろいろ感じたのです。とても純粋で、時にヒトには不器用だと思われる母がなぜだか強く感じました。「本当に大切なものは何かを知っている人だ」と感じました。

祖父もまたそうであったのでしょう。いろいろと昔話を聞くと、多くの兄弟の中から少なからず「手を持て余す」感の子供はいたようです。でも・・・・記憶にも登らないほどの古い祖先は・・・きっと「強きもの」が「生きた」時代を乗り越えてきたのだと思います。

「西洋」という「科学」を得て・・・・日本はいったいそれと同じように「何を」手にしたのか・・・・少し考えるとさびしいことです。日本という国に「なにを」入れたのか。

多くのヒトが「共生すること」を思い出してくれるといいな、と思います。

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リーディング

リーディングや例えばレイキ、スピリチュアル・・・そうゆう世界に興味がないヒトもたくさんいます。それはそれでいいのです。

これはいつかそのヒトが見てくれたらいいなぁ、ということを書こうと思います。

「悪魔にたましいを売ってるから」というヒトがいます。・・・・私から見ると真逆なのです。「いや、あなたがしていることは慈悲そのものじゃあないですか」と。

自分に厳しく、ヒトに優しすぎるぐらい優しい。優しいからこそメディカル、というルールの中で日本というルールの中で「悪魔」と称するようなことをしなければならない。それを自覚している時点で「慈悲」なんですよ。本当に悪魔にたましいを売っているならばそんな言葉は使いません。

自分がしていることを「悪魔」と表現する事事体で、すでに慈悲となっているのです。そこには自分自身の葛藤や「もっとこうできるはずなのに」とか「もっと出来ることはないのか」とかという自分への投げかけがあるからこそ「悪魔」という言葉を選ぶのです。「そうではない」という想いが自分自身を貶めるような言葉を選ぶのです。

もちろん「自分がしていることは慈悲だから」なんて公言してしまうのはこれまた?ではあるのですが。

いつも思います。ストイックなまでに自分に厳しく、言いたいことはたくさんあるだろうにそれを言わずとただただ自分が成すべきことをこなそうと一生懸命働いている姿を見ると「自分を大切に」と。あなたは十分に頑張っているし、十分愛されています。信頼もされているしみんなの支えにもなっている。どうか、穏かであれ、と。

興味がないヒトに、こんな話をするのもどうかと思うので伝えることはしていません。

しかし・・・・時々、自分を責めているような節があるのでもどかしくなります。責めなくていいのに、と。もっと、言いたいことを言っていいし、もっとガンガンに攻撃的でもいいのに。

数年前に亡くなった方が言っていました。「あんたはよく頑張ってくれた。本当にありがとうって伝えておいてくれ」と。それを伝えたいけれど、どうも霊だの何だのにはイマイチな印象があるのでこれまた伝えられていないです。

価値観の違いや信ずるところが違うのも個性。信念を何に見出すかも自由。

・・・・もどかしいなぁ。いつか、伝えられるといいのだけれど。

こんな感じの「伝えたいけれど伝えられない言葉」はたくさんたくさんあります。多くのヒトに。「そこはこう捉えればいいのに・・・。なぜ、苦しむ方を選ぶのかなぁ」みたいなことばかりです。私の印象が恐いイメージなのか「怒られるかと思った」という方が多くいます。怒る立場にはございませんよ。かの占い師のように怒ったりはしません。よほどでないかぎり 笑。

神様が「それでよい」と「よきかなぁ」とその存在を認めているのに、私ごときが怒るなんてことはないのです。でも、「こうしたらどう?」とは伝えたいと思います。そして、そうしなくてもいい。あなたの意思ですから。私のリーディングは「答え」を出しません。ただ、伝えるだけです。方法や方向性を「こんな側面もあるんだよ」と提示するだけです。そして、その先の「どうするか」は相手の自由ですから、ご自由に選択すればいいのです。

身の回りにいる人々の様々な事を感じます。それをどう伝えていいのか、そもそも伝えることにどんな意味があるのか・・・・いろいろと学んでいます。

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「ひとり」ということ

前記事で書いた、「ひとり」ということ・・・。

この数ヶ月「限界ヨロシク」を体験しました。「あなたの人生を歩みましょう」という学びと共に。

その途中、こんな言葉を目にしたのです。

「あなたが自分自身を犠牲にしてまで他者に奉仕することは宇宙が阻みます」と。

さらに・・・

「崇高な対象でないモノに奉仕することは一種の犠牲です」というようなこと・・・。

この言葉がどんな意味なのか始めは分かりませんでした。ですが、「宇宙がそれを阻みます」ということはなんとなく分かりました。「スピリット」というような大きな側面から言えば、「あなたのしあわせ」を様々な存在たちやエネルギーたちがサポートしてくれています。実際、自覚していない部分のことも丸分かり状態な訳で・・・・。

ですから、「自覚して」「自意識」で「これが最善だ」とか「これをやりたい」とか思っても、それがスピリットの領域では「私のスピリットの経験したいことではない」となぜだか変なほうに行ってしまうのです。それは、自分自身の人生でもってめいいっぱい経験したことです。

つまりそれが「宇宙がそれを阻みます」っていう言葉になっているんだろうな、と感じます。

「崇高な対象でないモノに奉仕することは一種の犠牲です」・・・・これはちょっとどぎついなぁと感じました。私はけして博愛主義者ではないです。でも、「奉仕する」とか「しない」とか考えて行動しているわけではないから・・・・。なんでこの言葉に出会ったのか始めは分からなかったのです。

ノンジャッジ、「あるがまま」をメインで学んでいるのに、なぜ「崇高な対象ではない・・・」という言葉に出会うのか。それってジャッジしろってこと?と少し考えてしまいました。すると・・・やはり日常の中でそれらは「やってくる」のです。バシバシと。「これは崇高かい?」と何度も何度も。見せられるのです。「これでも『これ』を崇高だというの?」みたいに。

そして「それにあなたは自分を犠牲にしていませんか?」と問われるのです。どぎついなぁ。いつも書いていることですが、私の職場は「死」が身近にあります。死ではなくても「私が今これをしなかったら何が起こりうるのか」ということを常に感じながら仕事をしています。おそれではなく、純粋に「自分の行動」が「結果」を生み出すことを実感できてしまう仕事です。・・・そんな中で見せられるのは本当にどぎつい。

ある人に「死は必ず訪れる。その瞬間が来ることは寿命だよ」と言ったら「じゃあしょうがないね」と・・・・。は?「しょうがない??」ってなにかなぁ・・・?「だからこそ精一杯やる」とは感じないんですね。そのヒトはそれから数年間もずっと「だからこそ・・・」とは感じないままでいたようです。「結果」として、それをこうむるのは私ではなく患者様、なのですね。

「痛い痛い」と言っている患者様に「しょうがないでしょ。」と言ってのけるのです。それを「どうすればそれを少しでも軽減させてあげられるか」とは考えないのです。

で、「あなたは自分を犠牲にしていませんか」とか「崇高な対象のモノ」とかとどう絡むか、という事なのですが。

上記のようなヒトはそれほど珍しくはありません。全ての情報を変容させる時にフォースへと変容させてしまう。つまり「自分自分」。そしてそういったヒトは多くの行動の中でもその「自分自分」をはずせないのです。ですから、なんでもないことを「嫌なこと」と捉え、周りにそれを投げつけます。・・・・正直、不快そのものです。それに加えてそうゆうヒトに右往左往させられている周りのヒトを見るのも疲れます。

「不快に感じている」自分自身を私は見ようとしていなかった部分があったのです。

「疲れる」とはそういったことなのだと感じたのです。自分に無理をしているという自覚はないのに、いつしか「そう思ってはいけない」という部分があったのです。

「私は自分が不快と感じないコト・モノ・ヒトと触れ合おう」と思いました。選ぶ、でもなくジャッジでもなく・・・・「自分のあるがまま」を認めよう、と。

「ひとり」を気づかせるためにいろんなことが起こりました。でも、とても有意義でその中で培った友情や愛情、経験、叡智は計り知れません。ありがたいことです。

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新年

マヤ暦で7月26日から新年となりました。

この暦でいう「昨年」は・・・なんというか自分の中がめまぐるしい日々でした。そしていろいろなヒトと出会い、別れ、身の回りのヒトとの関わりも変化しました。

面白いのは昨年中にヒーラーさんや出会ったヒトに言ってもらったことのほとんどが今になってみるとそのまま「昨年のテーマ」ともいえる形で、怒涛のようにそれは合点がいき、今では「こうゆうことを言っていたのね」と理解できているのです。

自分の中の何かが変わってきている気がします。

上手くは説明できないけれど・・・・原点に戻った感じです。

「ひとり」という原点、です。

ヒトは生まれるときも死ぬときも「ひとり」です。もちろん生きている間も。私はそれを分かっていたはずなのに、繋がってしまっていたのです。

自分では理解できていることなのに、他者にはそれは理解できないことも多い。だからこそ、いつも自分が勝手にしている「共感」を他者側からしてもらうとめちゃめちゃ嬉しいのです。そして「分かり合えるかもしれない」と嬉しくなってしまう。そして「同じなのかな」と愛や楽しむこと、嬉しいことたくさんたくさん感じようとする。・・・けれど、やっぱり「違う」んですね。

私にとって「愛」でも他者にとっては「依存する相手」として認識されていたり、私にとっては「仁義」であることが他者にとっては「依存できない相手」と認識されていたり・・・・。

大元の価値観があまりにも違うことを、愕然とした想いをすることで「ひとり」であることを理解しました。

「あぁ、私は私の人生を歩まなくては」

と、今更ながらに理解したのです。「分かり合える」というのもたぶん、ヒトが使用している「分かり合う」とは意味合いが違うと思います。依存でもなく共感でもなく・・・「繋がる」という感覚です。例えば「富士山」を見て個々に「美しいな」と感じる、でもそれを自分流に「繋がる」で説明すると「個々で美しいな、と感じるのと同時に富士山のエネルギーに触れ合う」ということです。富士山を通して私と他者とが「繋がる」のです。個々同士が繋がるという事ではなく。

そうすると「ほんときれいねぇ。美しいねぇ。」がシェアできるのです。対象物に純粋に繋がる、こと。そして「うふふ、えへへ」とほんわかなる。

それらを「個々の」感想として皆さんは言葉にする。でも・・・「共感している」というカタチを取ってくれていても・・・・やはり「違う」のです。多くのヒトは「個々で感じていること」にだけ焦点を当てている。私は「富士山を感じている」のです。「自分がどう感じているか」と「富士山を感じる」が同時に在るのです。

・・・そういった「繋がる」という感覚を持つヒトを探していたように思ったのです。ですが、もう探すのはやめよう、と思っています。なぜなら「私は私」だから。

自分の身の回りでその感覚をシェアできるヒトを探すというのは・・・なんだか同じところをグルグルしている気がしたのです。だから「私は私の人生を歩もう」と。

そして自分のその感覚で人生を歩んだ先に、きっと出会うだろう、と。

仕事の仕方、ヒトとの付き合い方・・・いろいろなことを、「自分流」にしていこう、と。今までも自分流ではあったのですが、それとは少し違う本当の意味での「ひとり」として「他者との分離」が済んだのだと思います。

「夢」は「私の」「夢」を描こう。

「生活」は「私の」「生活」をしよう。

多くのものからの「自立」を決意できた昨年でした。

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根幹

この数週間、複雑な日常を過ごしていました。

説明しがたいのですが・・・一言で言うと「何が根幹なのか」みたいなことを見つめさせられた日々でした。

ふと・・・「あ、そうか」と感じた事があります。

これからの私にないものは「怒り」だ、と。

今までは「怒りを感じるのはどうゆうことか」とか「怒りを感じないように自分を成長させていくには」とか「そもそもなぜ怒りが起こるのだろうか」とか・・・を見つめてきました。そこから様々なことが見えてきて、手放すものを手放し、今に到っています。

しかし、この数週間で感じたことはまさに「根幹」。

「あ、‘怒り‘そのものが私にはいらないんだ」

ってことです。なぜ怒るのかとか、なぜそれを感じるのかってつまりは「怒り」が「在る」ことが前提です。そもそも「怒り」自体がないのだということを感じたのです。

そしたら・・・・・「なぁんだ。怒らなくっていいのかぁ~」とすごく気が楽になりました。

「在る」ことを前提にするから「なぜ?」が出てくる。

そもそも・・・「あるがまま」と感じているのにわざわざ「怒る」必要がないわけです。それを一生懸命「怒らなくては。だって‘怒る‘があるはずだから!」みたいに探してまでわざわざ怒ろうとしていたことに気がついたのです。

私の中にあるのは「ほよよ?」という「それってどうして?」というクエスチョンであって「怒り」ではないんですね。でも、それがピークに達すると「訳わかんないよ!君たち!それってなんなのさ!?」とショートしてしまうのです。そしてそれを「=怒り」みたいな感覚になっているだけのことなんです。

「怒りを手放したい」と思っていたけれど、そもそも「怒り」が「ない」のに手放すという事はよく分からんことになりました。

「これは?」「これは?」と一生懸命怒る要素を探す。でも、そこには「怒り」なんてなくてただただ「訳がわからない」といったクエスチョンばかりが見えてくるのです。

怒らなくてもいいんだよ~ってことらしいのです。

私の中に「憐れみ」という感覚や「許す」という感覚がないように、「怒る」という感覚もまた「ない」のだということを知ることが出来た数週間でした。面白いなぁ。

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終末の映画

映画が好きなのでよく観るのですが・・・、ハリウッドなどに多いいわゆる「終末映画」。この前エヴァを観にいった時にも予告編が上映されていました。「2012」です。

今日もテレビで宇宙人はいるのか、とか2012年に何が起こるのか、とかやっていました。アセンションもそうだしマヤ暦でも終末については談義されています。

・・・・結局は・・・「人類にとって」なんですよね。今までの地球の歴史を振り返ってみても、何度も生命体の代替は行われてきているわけです。そして今回こそ「人類」なのではないか、というのが概ねの主張どころです。

「地球が静止する日」というキアヌ・リーヴス主演の映画も観ましたが・・・・かなり、がっかりな映画でした。「人間には代わるチャンスが必要なんだ」っていう理由で「滅亡」はいったん中止されるという最後・・・・は?ていうかんじでした。結局人類側のエゴばかりなんですよね。「宇宙にとって人類は・・・」という理由で物語りは始まるのに、結局「人類のために」という最後。宇宙のために、という大義名分はどこへやら・・・・・。がっかりな感じでした。

「終末」論議・・・・。そんなに「罪業意識」を持っていてどうするんですかね。「人類は滅びるかもしれない」と考えるってことは「滅びるべき存在だ」とも言えるわけです。自分たちが生きていることで何か「不都合がある」という考え方です。粛清されるべき存在であるから「終末」が起こりうる、っていう感じでしょうか。でもそれって罪業意識、ですよね。

何かを犠牲にしながら命を生きることになぜそんなにも罪業意識があるのでしょうか。そもそも、以前にも書いたようにこの地球では「他者を食す」ことで「生きる」のが理です。それに罪業意識を持っている。

だったら・・・・「おかげさま」とか「もったいない」とか「慮る」とかをもっと自覚すればいいのに。何かしらのおかげで今自分が生きていられることを自覚しないから罪業意識が積み重なってしまうのではないかなと感じます。「ありがたいなぁ」と感謝することで全てが変わってきます。罪業意識も手放すことが出来るし、終末論に恐れおののく必要もなくなる。

人類が滅びたとして・・・それがなんでしょうか?それが地球の歴史として時の中に過ぎ去っていくだけのこと。それでも地球はここに「在る」。それが地球です。

終末映画を観ると思います。「何を促すためにこれを作成するのだろうか」と。

「感謝すること」を気づかせるために、あのような危機的な状況までをもビジュアルにしないと人類は「感謝すること」も分からないってことなんだろうな、と。

そして、その一方で「なんとかなる」という、いまだに人類の力で地球をどうにかできると思っている傲慢さも感じます。古代の時代のように今ほど人口もなく、モノや様々な便利なものもなく生きていた時代に今の人類は生きていくのは無理なのでしょう。「おかげさま」というココロ(目に見えないモノへの畏怖)もなく、「地球上で一番」という傲慢さばかりを持ち続け・・・・それでは、地球はボロボロになるしかありませんからね。

好きなように生きて、そして地球はその因果により変容していきます。ですが、それさえも「それが地球の歴史」であるのですね。そこに「終末」・・・「人類の終末」があろうと、それは地球にとってはただの時の流れの中でのこと。

「人類が滅びちゃうから地球を大切に!」っていう表現が私は好きではありません。

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エヴァンゲリオン

エヴァを観てきました。

う~~ん。レイ・・・かわいいなぁ。「いいこいいこ」してあげたいです 笑。

テレビシリーズでは最後があいまいになっていたけれど、今回はエヴァとしての背景が確実に詳しく、そして「そう!そうなの!」ってかんじで描かれていてとても面白かったです。

私のイチオシは「初号機」です。これは10年前から変わらないですね。シンジでもなく「初号機」です。

セフィロトの世界観が今回は分かりやすくなって表面化して来ていることが嬉しい。テレビシリーズではセフィロトに関してもあいまいで、「分かる人はわかるでしょ」みたいな感じだったけれど、今回は「使徒」の立ち位置もエヴァの存在の立ち位置も明確になっていて嬉しいのです。

泣いたなぁ。シンジの「願い」から「覚醒」するエヴァ・・・。今、この地球に来ている波と同じですねぇ。サードインパクトがいわゆるスピ界で言われている「アセンション」ですねぇ。

「使徒」=「大天使」ですからね。「りリス」はセフィロトでいう「物質界」の「マルクト」です。別名「剥奪者」、です。それが「人間」ってこと。だからこそ「人類補完計画」なんていう計画があるわけです。補完する必要がない存在(映画ではレイとかカヲルです)とそれに焦がれる人間。でも本当は人間も「補完」する必要なんてないのですがね。ただ、思い出せばいいだけの事。みずからも「レイ」であり「カヲル」であることを。

カヲルの「シンジ君。君だけでも助けるよ。」・・・人間全てに言ってくれている言葉なんですがねぇ。ヒトはそれを信じようとしない、のです。いつまでも「補完されなければ」という枠をはずせない。レイはいきなり「りリス」=物質界に誕生させられて「人間ってなに???」みたいな子。かわいいなぁ。ほんと「いいこいいこ」してあげたい。シンジが一生懸命「愛」を教えようとしているけれど・・・・レイはレイでいて欲しいな。ヒト臭くならなくてもいいのにな。

毎回そうだけれど、エヴァを観るときって自分自身も大きな段階を迎えているとき。そうゆうタイミングで観る事になっているんだよなぁ。これもまた、面白い。

来週、もう一回観に行ってきます 笑。

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目に見えないことへの畏怖

前記事と繋がっているのですが・・・去年、伊勢神宮参拝をした時のことです。

ちょうど内宮の中では「神事」が執り行われていました。私もそれを眺めながら「ふわぁぁ~よきかなぁ~」に包まれていました。すると・・・若いバスガイドさんが大きな声で「はぁ~~い!ここが伊勢神宮の内宮ですよ~!参拝してくださぁ~い!!」と旗振りフリズカズカと鳥居をくぐり、ツアー客を案内してきたのです。

今回のご来光ツアーでもそれと同じ感覚がしました。

確かに神様たちは「それすらもよきかなぁ~」というなんとも大きなエネルギーたちです。・・・でも、ごめんね。私は人間ですから、神様のように大きくはなれません 笑。

お願いですから、もう少しだけ・・・・「畏怖」ということを感じることは出来ませんか?目に見えないモノに「愛おしい」と感じることは出来ませんか?

「畏怖」:「おそれおおい」:「感謝すること」です。

この日本を守ってくれているエネルギーである天照大神に「ありがとう」と感謝することは「宗教」でもないし「信心深い」でもなく・・・・なんと表現したらいいか・・・・。「今ここにいることをありがたいと思うこと」と繋がっていると思うのです。「あなたたちがいてくれたから今の私はここにいる」ということなのだと思うのです。父や母、ご先祖様たちを敬うのと同じことです。全て繋がっていて・・・・・「今」がある。それに「ありがたいなぁ」と感謝することがそれほど難しいことなのでしょうか・・・。

少し前の記事で「願い事」についてを書きました。

ヒトは「こうお願いしたんだからこう叶えてよ」と言います。そして、それがその通りに叶わないと「やっぱり神様なんていないじゃん」と腹を立てます。

ですが・・・・そういった存在たちは「それすらも」「よきかなぁ~」と言ってくれているのです。

どうゆうことなのか見つめて欲しいと感じます。

どれほどの大きな愛で見つめてくれているのか。

クァン・インと繋がった時・・・・「あんたすごいよ!慈悲ってすごい!‘最後の一人まで共にいます‘という観音様の言葉・・・私にはとても難しいことです!」と感じました。なんて、私は小さな人間だろう、と。いまだに、上記のようなことがイマイチ理解できないし、そういったヒトの最後の一人まで共にいる、なんて正直気が遠くなります。数千年たっても学ぶことが出来ていないヒトにそこまでの慈悲を抱くことが私には難しい。

・・・だから、せめて・・・「目に見えないモノへ‘敬う‘というココロを持ってはみませんか」といい続けたいと思っています。

どうしたら伝わるんだろう?と常々思います。

「感謝すること」「慮ること」・・・・「感じること」。

それがなくてもヒトは生きていけます。それがなくてはいけないものでもないです。ただ・・・それを感じることが出来た時、それまでとは違った「歓び」「感動」「嬉しさ」「愛」があふれ出すのです。せっかく生まれてきたのだから、せっかく肉体を持った「個」としてこの地球にいるのだから・・・・それらをもっともっと感じてみて、経験豊かな素晴らしい人生を送ってみてはどうですか?と感じます。「お土産を買うこと」「観光すること」だけではない素晴らしい経験がたくさん出来るのに・・・・。

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これは・・・?

富士山ご来光ツアーでのこと・・・・。

伊勢神宮の参拝に行った時も同じ現象が起きました。

まず一つ目は「体に悪いモノは食せない」。伊勢に行った時は2年連続で同じ現象が起きました。参拝後、自動販売機でちょっと炭酸系のドリンクを買おうとしたら「出てこない」。2年連続、で。結局「水」を買うことに。今回の富士山でもコーヒーが出たので飲もうとしたら一口も飲まずに「こぼした」。結局持参したお茶を飲んだ。

そして、これはどうゆうことなのだろう?と不思議なのですが・・・・。

どう書いて良いのか分からないので、漠然と書きますが。

高次のエネルギーに満ちているところに行くと、低次のコト・モノが不快でたまらなくなるのです。私の場合、「繋がる」という動作は勝手に作動してしまっています。伊勢神宮や富士山などはまさに「んとね~」と言いたくなる様なたおやかな、そして荘厳なエネルギーに満ちています。そこに・・・・「ヒトの想念」も同時に繋がってしまうと「不快」極まりないのです。

ツアーの「案内人」と称してガイドがつくのですが・・・・なんとも言えない・・・「ヒト」そのもので・・・・かなり辛かったです。かつてなら「聞かないといけないのかな」と我慢してガイドを聞いていたことでしょう。しかし・・・限界ヨロシクを経験した私は我慢しませんでした。席を離れ一人富士山を眺めていました。

酷評となってしまいそうなので細かくは書きませんが・・・・一言。

「富士山を愛するならば‘富士山を眺める時間‘を作ってさし上げるのもあなたの出来ることですよ。‘お土産を買わせる事‘‘こうゆう歴史があるから富士山は素晴らしいと定義付けること‘は必要ないのではないですか?」

そこに在るだけで素晴らしい。ヒトが何を言おうとヒトの歴史がどうあろうと、ただただ美しいのに。・・・・目に見えること、ヒトの道程だけが素晴らしいということに終始した結果・・・・ほとんどのヒトは「ガイドのお話を聞き、お土産を買う」ツアーでしかなくなってしまっているのです。少しだけ・・・・さみしくなりました。

不思議です。とても格安でこのご来光ツアーは開催されています。海外旅行で言えば「なんのガイドもなく」開催されるほどの格安さです。しかし・・・・富士山では、その格安だとこの「お買い物ツアー」となってしまうのです。本当なら「バスで行って帰って」だけで「あとは勝手にしてね」みたいになるはずなのに・・・。う~むむむ。残念!

でも、ご来光は美しく、富士山も美しく。伊勢とはまた違った荘厳さがある素敵な場所でした。個人的な探求として「高次のエネルギーが満ちているところで低次のエネルギーを察知しない方法」を検討中。あの不快さはちょっとつらいから。

伊勢では「ふわぁぁ~」と言っている間に、どんどんその不快さから血の気が引き・・・・顔色不良、になっていました。だから参拝する時は一緒に行っている友人でさえも私の側から離れてもらいます。

自分で意識的にしているのではないので・・・・どうしたらいいのかは分かりません。この勝手にいろいろなものに繋がってしまうのも「私」なので探求開始です。せっかくの美しい素敵なエネルギーの体感時間なのに「ヒトと一緒」だととてもツライ。これをどうにかしたいものです。素晴らしい体験とどうしようもない感覚とが同時に襲ってくる。自分がばらばらになりそうな感覚です。でも、一人になり素晴らしい体験だけにするとなんとも言えない心地よさが溢れます。「よきかなぁ~」と。

いつかヒトと素晴らしい体験をシェアできたら素敵です。

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旅行

先日家族旅行をしてきました。梅雨時期にも関わらずまずまずな天気であいかわらず忙しい楽しい旅行でした。

スケジュールは

8:00 出発→8:40待ち合わせ→10:00河口湖到着→お昼ごはん→11:00天上山(かちかち山)展望台とアジサイ散策で下山→河口湖遊覧船にて周遊→姪がスワンボートへ(ふらふらの酔っ払いスワンになっていた 笑)→14:30ハーブフェスティバルへ行くも混雑していて駐車できずホテルへチェックイン(湖南荘 泊)→屋上の足湯につかる→昼寝→17:15温泉入浴→18:30夕食→20:00花火大会が部屋の目の前で開催 観賞→21:00姪っ子たちとゲームコーナーへ(姪はコイン10枚から100枚に増やし・・・大人たちでやっとの思いで消費!)→22:00就寝

3:00起床→3;30「富士山5合目 ご来光ツアー」へ出発→4:35ご来光参拝(4分ほどだけ太陽現る)→ぼんやりと富士を眺める→5:40富士山出発→6:30ホテル着→朝風呂へ(ようやく富士山を下界から眺める)→8:00朝食→9:00ホテルチェックアウトし、ハーブフェスティバルへ→「与 勇輝」の作品を鑑賞→お土産タイム→11:30「石ころ館」にて姪がネックレスを創作体験(じじ居眠りタイム:「ねぇねの結婚式でつけるの!」とのこと・・・つけるチャンスがなかったらごめんね 笑)→河口湖出発→御殿場で昼食→帰宅

どこかの旅行ツアーばりのスケジュールで・・・楽しくも多忙な2日間でした。

富士山はあいにくもやっていて下界からはほとんど見ることができませんでしたが、ご来光ツアーにて5合目から頂上を眺めることが出来ました。

土曜日曜に観光地メッカに行くことなどほとんどないので御殿場でのヒトの多さにはちょっとびっくりしました。不況というけれど・・・結構皆さん楽しんでいるようです。

お子ちゃまと過ごすと若返ります。なんのてらいもなく「たのしい!」「うれしい!」「なんだか分からないけどえへへ~」みたいなお子ちゃまエネルギーはこちらもうふふ、となります。どこからそんなに元気が出来るのだろう?というぐらい元気で大人はついていくのが大変!笑 です。いつまでも純粋でいてください。

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アチューメントについて

ここで、少し「アチューメント」についてを書こうと思います。

「チャネルを合わせる」「繋げる」「呼び込む」・・・いろいろな解釈が出来るこのアチューメント。それは、一体どうゆうことなのかを少し書いてみようと思います。

例えば、とても好きな芸能人がいたとして・・・その人のようになりたい!と、一生懸命洋服のセンスを真似てみたり、お化粧を学んでみたり、ダイエットをしてみたり・・・そうして、いつのまにかその好きな人と同じ様に輝ける自分を手に入れたりします。

それと似ています。

「クァン・イン」(観音)、「ミカエル」「ラファエル」「ウリエル」「ガブリエル」などなどとの「縁」を繋いでくれるのが「アチューメント」と言われています。

「クァン・イン」のエネルギーである「慈悲・浄化・慈しみ」を自分の人生に取り入れるのです。そうすることで、自然と慈悲ということがどんなことなのか、浄化とはどんなことなのか理解します。そして、自らも「慈悲」となり、「浄化」を促すことができるようになるのです。

詳しく書いてしまえば、アチューメントをしなくても繋がることはできます。しかし、ファシリテーター(すでに繋がっているヒト、導管)にそれを誘導してもらうことですんなりといくのです。アチューメントをしなくても繋がりたい時は「あたかも自分がクァン・インになったかのように意識し行動してみる」のです。そうすると、「慈悲」に辿り着くまでに何を手放せばいいかが見えてきますし、そして手放した先に「慈悲」に辿り着く自らを自覚できます。それを自覚できた時すでにアチューメントは終了していると同じなのです。

私がエンジェルリンクを受けたのは、漠然とした「このエネルギーが私の人生にあったら素敵だな」ということと、「私が笑っていることで周りにもそのおすそ分けが出来るんだよな」ということです。「無償の愛」というローズオーラ、「ノンジャッジメント」というミカエル、「癒し」であるラファエル、「エンジェリックビューティ」というウリエル、「エンジェリックジョイ」というガブリエル・・・・それらが、様々な事を私に気づかせ、それを体現するようにサポートしてくれる。そして私がそれを体現することで、周りに人々にもそれらをおすそ分けできるのです。

イライラしている人の側に、ポンっと座るだけで私の周りに充満しているそれらのエネルギーで「なんだか、イライラしているのが和らいできたな・・・」となってくれる。こんな素敵なことはありません。何かに怒っているヒトの側にいるだけで、「ほよよ~そんなこと気にすることないんだよ」というエネルギーで満たしてあげることが出来る。そんな素敵なことはありません。

アチューメントやヒーリングは言い方は悪いですが「思い込み」からどんどん拡がってもいきます。ですが、「思い込み」と違うところは「与えられるものは全てギフト」というところです。もし、「思い込み」から入ったとしても、いずれ本当の意味で穏かなる自分に気づかされます。「自分にとって都合のいいカタチ」ではなく、です。自分にとって都合のいいカタチでそのエネルギーを「理解した」とか「繋がった」とすると、「自分も幸せ。他者も幸せ」に行き着くことは少し難しいでしょう。ですが、「ギフト」である本質と繋がるとそれはすんなりと行われます。

ためしに、ひとつアチューメントを受けてみると実感すると思います。

それをしていただいたときに、劇的に何かが変わるなんてことはありません。ですが、振り返ってみるとそれを受けた時から自分自身がそのエネルギーの元、変容していったのだということがわかると思います。「理屈じゃなくて」みたいな自然の流れの中で変容が起きているのです。

「もっとヒトに優しくしたいのにできない」という場合、それらのエネルギーをアチューメントしてもらうことで「優しくできない根本は何か」とか「どうしたら優しい目で受け入れられるのか」とかが気づきとしてバシバシ日常の中で起こってきます。そして、それらを学び、それらを実践していくことで「優しく出来る自分」を培っていくことができるのです。

自分の人生にどんなエネルギーを取り入れたいか、という視点でアチューメントを捉えてみると分かりやすいかもしれませんね。

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エンジェルリンク②

エンジェルリンク(ラファエル・ウリエル)をしていただいて1週間・・・・。いろんなことが見えてきました。

まず、ウリエル。・・・たぶん私の人生に今まで上手く回っていなかった部分なのだと思うのですが・・・「エンジェリックビューティ」というエネルギーです。なんだか上手く説明できませんが「楽しむ」ってことでしょうか。私にとって、なのですが「楽しむ」=「エンジェッリクビューティ」であるようです。楽しみ、笑い、喜び=美しきもの、というエネルギーです。おかげさまで、「楽しい」です。「歓び」ではなく「喜び」です。ぬふふ・・・と思わず笑ってしまうような感じです。

そしてラファエル。これは本当に「先の道を照らす」「癒し」である感じです。今まで見えていなかった側面をたくさん気づかせてくれます。そして「気づく先にある癒し」を体感しています。「そこだったのか~」というような、ほんの少し視点をずらすだけで訪れる癒しは本当に心を穏かにさせてくれます。

例えば・・・最近、いろいろなことが「頭打ち」状態で「どこに向かって、何をすればいいのか」を見定めることが出来なかったのですが、「たぶんこうゆう方向だろう」と感じていたことが実は「すでに行っていること」であると気づかされました。エネルギーを通すことや導管となること、リーディングやヒーリング・・・これらをどうしていいか分からずにいました。別にサロンを開きたいわけでもないし、そもそも「どうぞご自由に」と感じているのでわざわざ自分でそういった場所を設けるつもりもなかったのです。ですが、ではどうしたら私が持ちえているものを出せばいいのだろう?と頭打ち状態だったのです。

ですが・・・「すでに行っている」ということに気がついたのです。例えば患者様との触れ合い、友人や仲間とのふれあいの中で私はすでにヒーリングを行っていて、リーディングも些細な会話の中からも行っている。(チャネリングも含む)

リーディングに関しては「私はサイコメトラーか?」と笑い話にしたぐらい看護記録やカルテなどをリーディングしていたのです。「そこで一体何が起こり、なにが余白としてあるか、そしてなにが必要か、アクションとして何を行うか」などなど・・・。会話の中でそのスピリットのチャネリングをし、必要なヒーリングを行ってもいたのです。看取る、ということもそのひとつでした。

「すでに行っている」ことを「これからしなければ」という視点で見れば「頭打ち」となるのもうなずけるのです。

上記のはひとつの事柄ですが、いろんなことがそういったカタチで気づかされています。そして、それらを見ることで、「ではどうするか」も見えてきつつあります。

ミカエルとは違ったなんというか・・・「面白い」エネルギーです。

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エンジェルリンク②

今日はエンジェルリンク第2弾として「ラファエル」と「ウリエル」を受けてきました。

いつもそうなのですが、このリンクを受けることを促されるように物事が流れていたので、ようやく一段落、というような感じです。予約を入れるとさらにはっきりとそこへの道筋が通るので「ほぉ・・・これがラファエルかぁ」とか「これがウリエルかぁ」と理解できます。

前記事などと繋がっているのですが、「私を主張する」ことが私にとっての「癒し」であることがメインに気がつかされたことです。つい先日は患者様の申し送りの時に「もう、限界ヨロシクです」と患者様の様子を伝えたのですが、つまりはそれすらも私の内なる声が「もう限界ヨロシクです!」と言っていたのだということです。「もう、いいかげん主張しなさい。あなたは限界ヨロシク、ですよ」ということを教えてもらいました。

そして、それに気がつき「ではどうするか」と変容していくのがラファエルの癒しであるのです。ウリエルは「審美眼」、「なにが本当の美しさなのか」ということを分からせてくれるエネルギーです。上記の件で言えば、自分が限界ヨロシクな状態なのに、さらに他者のために身を削ることは「美しくない」ということらしいのです。「あなたも幸せ、他者も幸せ」が本当の美しさなのでしょう。

リンクのアチューメントをしていただいている時に私やファシリテーターの方が感じたのは、ラファエルは「なじんでいた」という事と、ウリエルは「きれいな感じ」というイメージでした。面白かったのはウリエルは最初、大工道具や日曜大工道具を入れる「赤いブリキ缶」のハコを抱えていました。私は「さすがにもうちょっと美しいのにしてくれると嬉しいです」と伝えるときれいなピンク色と赤い色のハートのハコを手渡してくれました。さらに四角いハコを受け渡されました。一体、これからの人生でそのハコから何が出てきてくれるのかと、とても楽しみです。(象徴としてラファエルは「たいまつ」、ウリエルは「ハートの小箱」を手渡しにやってきてくれるといわれています。ヒトによって形やエネルギーは違うそうですが・・・)

セラフローズオーラとミカエル、そして今回ラファエルとウリエルとの縁を繋いでいただきました。次回はガブリエルです。ミカエルをアチューメントしていただいてから様々なことが整理されて、そしてラファエルに私にとっての癒しとは何かを教えてもらい、ウリエルに本当の美しさとは何かを教えてもらう。そしてガブリエルは「歓び」とはどうゆうことなのかを教えてくれるのです。ローズオーラという「無償の愛」を根底にして。

ガブリエルは象徴として「受胎告知」ということも言われていますから、ファシリテーターさんに「たぶんこれからミカエル、ラファエル、ウリエルでいろんなことが明確になり、そしてガブリエルのエネルギーで『あなたの歓びとは』という『告知』を受けるのでしょうね」と教えていただきました。なるほどねぇ。その告知を受けるためにミカエルやラファエル、ウリエルが私にいろんなことを気づかせてくれるのです。

いつごろガブリエルに会えるのかとても楽しみです。

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そこか・・・。

ここ1ヶ月ほど夜勤ばかりの生活でした。

今までになくかなりのハードスケジュールでした。そのことから学んだこと。

今までいくらハードでも「仕事だから」とこなしていました。ですが、最近どうもそうではないらしいという事が分かり始めました。以前の記事でも書いたようにカルチャーショックは結構あるのですが、この仕事に関することでもあったようなのです。

よくよく聞いてみると周りの人たちは「これはキツイ」とか「こうしてほしい」という希望を勤務希望を出す際に申し出ていたそうなのです。常々それは分かっていましたが、「仕事だしそんなわがままはどうなのだろう」と思っていたので私は、ほとんど希望は出さずにこの6年を過ごしていました。

・・・ところが、この4月期に入り人事異動や様々な流れの中でどんどんハードになっていくのです。たとえば、他のヒトが「これはイヤ」と言ったことが何も言わないヒトに回ってきていたりすることが顕著なのです。もちろん人員の都合もあるのでいたしかたないのですが、「その業務を行えるヒト」も人事異動などで減少したため、残った人々でそれをこなさなければなりません。しかし、その残った人々の中で「私は嫌」と宣言されてしまえば、何も言わないヒトにその仕事が回ってくるのは当然です。ヒトが少なくなっても業務は同じ容量あるわけですから、回ってくる量もぐっと増えるし濃くなるわけです。

それで学んだこと。「主張しよう」です。

本当に些細なことなのですが、「勤務希望を出す」ということでさえもカルチャーショックが伴うのです。私までも「それは嫌です」とか言ってしまえばではどうやってまわしていくのだろう?ということから「やるしかないじゃん」と今までこなしていたのですが・・・「言ったもの勝ち」みたいなことはさすがに疑問が残るのです。しかも、それらを引き受けてこなしていることで私が出来るはずの事に少なからずキャパオーバーが出てきてしまうのは事実。そして「私は嫌」と宣言したヒトは安穏とマイペースなのです。

かなり「いいのかなぁ・・・」と感じながらも、今回の勤務希望では「ちょっとこれはキツイです」ということを添えて出してみました。私的にはドキドキものです。私が嫌といったばかりに他のヒトがキツイことになるのもどうかと思うからです。

そうしたら・・・「ごめんね。来月からは少し楽になると思うから・・・」と言っていただいたのです。・・・・ほぉ・・・そうか、言ってもいいのか、ということを学べたのです。

自分では別に「私がきつい仕事をすればいい」という意識で、希望を言ったりできないわけではないとしていたのですが、ヒトがそれぞれ自分はどうしたいか、を主張することによって様々な譲歩や調整は図られるものなのだと分かりました。

「自分をもっと大切にしましょう」とも繋がっているのだろうな、と感じる学びでした。

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長い間の疑問

なぜ「気づくモノ」と「気づかぬモノ」がいるのでしょうか。

今大きな「流れ」が起こっているのは「全てのモノ」に、なのですが・・・・「気づかぬモノ」「気づくモノ」が在ります。

そしてさらに「気づくモノ」にも深淵に「気づくモノ」と「気づかぬモノ」が在ります。

もちろん気づかぬモノでも変容は始まっていて進んでいます。

しかしどこを「到達点」にしているのでしょうか。

自覚しうる「意識」の領域で行動を起こすことを促されている人々も多くなってきています。けれどあまりに「幼い」領域であることもしばしば・・・・。

意識していようがしていまいが、進んでいてたぶん同じ様に変容していっていることでしょう。

では「気づくモノ」は一体「何を」すればいいのでしょうか。

自覚しうる意識の領域で「自覚」すると変容は「明らか」に進んでいきます。それを促すことでしょうか。

ここで疑問が浮かぶのです。気づかないままで自覚しないままでも変容は行われています。それを「自覚する」ことへの意義がよく分からないのです。スピリチュアルの大きな流れの中で「自覚しましょう」という一定方向へ促されている風潮もありますが、それは「何を」目的としているのでしょうか。「自覚したほうが楽だよ」ということなのは自分自身の経緯を見ても分かります。

それぞれのスピリットの自由意志の元「気づくモノ」「気づかぬモノ」が在ります。

多くのヒーラーや様々なメディスンたちは例えば「サロン」を開き、「気づきつつあるモノ」「気づくモノ」に対する門戸を開いています。では、「気づかぬモノ」への門戸は誰が開くのでしょうか。もちろん、そのヒーラーたちやメディスンたちと関わっていった人々が散らばり拡がっては行くのでしょう。

では「幼さ」は?

全ての事柄、事象、出来事は「そのスピリットに見合った」領域で起こります。

時々出会うヒーラーとはまた別の役割を担ったヒトは必ず同じ様な「色」をしています。顔色というか・・・・。しかし、そういったヒトは多くはすでに「センセイ」と呼ばれる地位を得ていたりします。「スピリット」と「自我」で繋がりがどういったコードになっているかは分かりませんが・・・私は「不健康」と感じるのです。上手く回っていないな、と。ですがその人々に「教えを請う」ているのです。

本当の意味で「輝いているヒト」はいます。そういった人々と出会えるように多くのヒトが選択して行って欲しいと願わずにはいられません。

極端に書いてしまえば「地球上での概念」を手放せずに「ヒト」であり続けることに必死で「執着」しているヒトは顔色が悪いです・・・・・。

そうゆうのはどうしたらいいのでしょうね。

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ふむ。

ちょこっと「私の世界」。

私は無宗教ですが、無神論ではないと自分では思っています。

かつて地球が誕生した時・・・・元素や原子・分子だけの世界・・・そういった「生命」がある前の段階。それが確実にあったわけです。そして・・・どこからかなんて分からないけれど(火の中なのか、水の中なのかとか)、あるとき「生命」が生まれました。私はその始めの「生まれる」というエネルギー自体が「神」であると感じています。科学的に実証されない「無」から「生命」へのエネルギーです。

ヘドロの中だっていい、マグマの中だっていい。その中に「生命」が生まれた。水がいくら分解しても「命」は生まれない。それが「科学」。しかし、遠い遠い遥か昔に「それ」が生まれた瞬間があったわけです。そして進化して進化して今の様々な生物になっている。

宇宙からやってきた・・・・それならばそれでいい。けれど、じゃあその宇宙での「生命」の始まりは?その「はじまり」にかかるエネルギーを私は神だと思っているのです。

「無」から「有」へ。そのエネルギーは計り知れない。

「創造する」こと・・・・「想像する」こと・・・・神と同じエネルギーを宿す瞬間でもあると思うのです。(もちろん神と同一ではないですが)

自分の人生を生きるとき、「ヒトの真似」「ヒトと同じ」「言われたとおりに」していたのでは神のエネルギーと離れてしまいますよね。創造しましょうよ。想像しましょうよ。けして「同じ」モノにはなれないこの地球で、もっと楽しい創造をしましょうね。

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映画「天使と悪魔」

今日は久々に映画に行ってきました。トム・ハンクス主演の「ダヴィンチ・コード」の第2弾「天使と悪魔」です。

前作とは少し変わって「明らかな悪」という存在は描かれておらず、反対に「天使の中の悪魔」というようなものでした。

いろいろなことを感じた映画でした。

ヒトにとって「自らの未熟さを認める」という行為が最も難しい行為なのではないかと感じました。もちろん私も含めてです。「未熟さ」というとまるで「完成型」があるかのようですが、実はそれはないのではないかな、と。では、なぜ「未熟」と表現するか・・・・。「完璧ではないことを知る」ということかなと思います。

完璧という完成型がないのに「完璧ではないことを知る」・・・・なのです。でも、それが「生きる」ということなのかもしれません。だからこそ「自分の完璧ではない部分を認める」ことがヒトにとって全ての源になるのではないかと。それを認めないままでいるからこそ「おそれ」があり、「傲慢」がある。・・・・つまり「そうではない」というエネルギー、ということ。

映画の中で「科学で神の力とされてしまったら、私たちの神はどうなる?!」というようなことを言っていました。それが「悪魔」と表現されたことなのですが・・・・。まさに、その通りだと感じます。悪魔は「おそれ」「傲慢」「執着」に象徴される「言葉」です。「私たちの神はどうなる?」というまさにこの一言なのですね。

・・・ふと、考えました。世界中にいる多くの影響力を持つ様々なポジションにいる人々がこの「悪魔」とどれだけ戦っているのでしょうか。たぶん、個人的にはそれを成し遂げたいと思ってもそれを阻む勢力もあるはず。それを破壊ではなく調和で解決するにはどれだけの葛藤があるのでしょうか。

例えば日本の政治。麻生さんが素晴らしい、という論議ではなく・・・・本当は麻生さんは個人的にはもっと情熱的に改革をしたかったり調和を求めているのだとしたら?それを阻んでいるのは一体誰でしょうね。誰が正義か悪か、なんていうことはもうそろそろ日本の政治も手放して欲しいところ。なぜ「共に調和する」ことを前提にしないのでしょうか。それって・・・・映画では「悪魔」とされているのにね。

長いスパンで叶えられるのに「今困るから」という理由でそれを阻む。税金も年金もそう感じます。政権が変わってもたぶん・・・・しばらくは「同じ」。今度は自民党が民主党を「敵」とするだけ。「敵」とすることもいわゆる「悪魔」の概念です。本来は「敵」など存在しないのですから。

ひとつのフィクションの映画ではありますが、いろいろなことを気づかされます。

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願い事②

ある時、私はもっと交流を深めたいと思っているヒトがいました。でも、そのヒトはその頃ピリピリといつも忙しく、ストレスが溜まってしまっている状態でした。話をしようにもその余裕がないような状態だったのです。

そこで私は「どうか穏かであってください」と思いました。そして、数日たち・・・そのストレスのピークが去り穏かそうに過ごしていました。・・・・ほよ?ではどうしてなかなか話が出来ないんだろう?とだんだん私は感じました。「!・・・交流を深めたいとはお願いしていなかった!」と気がついたのです。

思わず笑いました。ヒトであれば「これこれこうお願いしたんだから、つまりはこうゆうことなのね」と「慮る」部分が少なからずあります。しかし、エンジェルやマスターたちは違います。メチャメチャ「ダイレクト」なのです。「はい!オーダーはいりました!‘穏かに‘にサポート入ります!」みたいな(笑)。私との交流はオーダーに入っていないのです。

そこで私は「交流が深まりますように」とお願いをしました。すると、「関わる時間」がどんどん増えていきました。そして私は交流していくことを行動に移すことが出来たのです。

もちろん「これこれこうゆうふうに」と交流の仕方は限定していませんから、様々なカタチでその機会は訪れます。時には「これかよ!」と思うような形だったりもします。しかし、そのときを「どう過ごすか」は私の自由ですから楽しみます。後々見つめると、「あぁ、あれがあったから交流が深まったんだろうな」なんて思うのです。

では、違う側面からで・・・・。この「他者が穏かになりますように」は勝手に発動していいのかどうか、というところです。これはよく言われているのは「相手のガイドさんに聞きましょう」ということと当てはまります。

私はあまり相手のガイドさんには問いません。なぜなら「スピリットにとって最善のカタチ」で叶うからです。ですから、たとえ私がその他者の穏かさを願っても「その状態(学び)」がそのヒトにとって必要ならばそれが済むまで継続されるでしょう。私が発動した「穏やかでありますように」にかかるサポートは「穏やかであってもいいんだよ」ということを相手に知らせるサインとなって降り注ぎます。それに気づき、いろいろなことが収束に向かい、そして穏かさを相手は手に入れる。もし、気がつかなければまだまだ穏かではない日々が続くのです。

私の願いと相手のスピリットにとっての最善がマッチした時に「穏かな」日々が訪れるのです。

ですから、私は「執着」=「エゴ」にこだわります。例えば、私が私のエゴとして「私と話をする時間がないから穏かであってください」とお願いをしたら「何で、君のために?」ということです。ようは「自分のため」にお願いをしても他者の幸せを願っているとは言えない訳です。執着は「自分」の中でのことです。相手に執着していての願い事は「自分のため」です。

私はよく感じます。「早く気がつけばいいのになぁ」と。穏かなる日々がすぐそこに用意されていて、いっぱいサポートが入っているのに何かにこだわりそのサインに気づかずにいつまでもグルグルとしている。ひとごとながら「いい加減疲れないの?」と感じます。それさえ抜け出せば「その状態(学び)」は一段落するのになぁ・・・と。

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願い事

前の記事で少し書いたのですが、「願い事が叶う」ということについて少し書こうと思います。

ある友人の話です。

「子供がまだ19歳なのに彼と仲が良すぎる。せっかく大学まで入ったのに子供が出来たらどうしよう?そういったお願いも聞いてもらえるの?」

というようなことを聞かれました。

この場合、「子供の幸せを願う母の願い」は聞き遂げられます。しかし「子供が出来たらどうしよう」という部分は別です。説明すると「その子にとっての幸せ」は叶う、のです。それが母の願いですよね。「子供が出来たらどうしよう」は母としての心配、です。しかし、その子にとって「今お子さんが出来ること」が幸せな道ならばその母としての心配な部分は叶わないことになります。

「まだ19歳なのに・・・」ろいうのも母心。「子供が出来たらどうしよう」というのも母心。しかし、根底にあるのはどんな理由をつけても「この子が幸せでありますように」という願いです。それはきちんと叶うのです。ただ、そのカタチは母心とは一致しないこともあるのです。

こう考えると「願い事が叶わない」なんてことはないのです。

もっと細かく言うと、「ひとつのスピリットとして学ぶこと、経験すること、感動すること」が大きなスピリットの目的としてあるのです。お子さんを生むことでそれらを体験することもあれば、社会経験を積んでもしかしたら何かのスペシャリストになってそれを経験するのかもしれない。それは「個」としてひとつひとつのスピリットが選んでいけるもの。たとえ「母」であろうとそこは別なのです。

願い事を願う時、「おおまかに」「本当に叶って欲しい部分」だけを願うことで、その答えは「はっきり」としてきます。

「お金が欲しい」という願い事だとすれば「どうか、私が経済的不安がなく暮らせますように」とするだけでいいのです。そこに「宝くじが当たりますように」とか「これこれこうゆう風に」と限定したカタチをつける必要はないのです。もしかしたら「良い仕事」が見つかるかもしれないし、節約方法が見つかるのかもしれない。はじめは「苦労」に感じても後々、その経済的不安から解放されるプロジェクトに関わるのかもしれない。いろんな「カタチ」でサポートしてくれるのです。「お金が欲しい」と言っておきながら「働くのがイヤ」ではお金が入ってくることも難しいでしょう。お金が欲しい、と言っておきながら無駄遣いばかりしているのでは経済的安定は不確かになるでしょう。そういった状態にあるのならば、まずは「働こう」とか「これは無駄かな」とかということに気づけるようにサポートしてくれるのです。

ですから、「長いスパンで」叶えられているということ、そしてその願いをかけたときからそこへの道は始まっているのだという事を知ると、楽しくなります。「そうか・・・ここをどうにかすればいいんだな」というような「気づき」として「直感」としてサポートのサインを送ってくれます。そして、それに従ってみる。そうすると・・・いつの間にか願い事は叶っているのです。

なんの繋がりもないような出来事でさえも、その願い事が叶えられるためのステップであるのです。

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ノンジャッジメント

以前、言われたことがあります。

「ノンジャッジはとても大切だけれど、全てをあるがままでいい、としていては変容にアクションをかけることは難しいのではないの?」

と。これまた1年がかりで見つめました。確かにそうなのです。私の中にあるノンジャッジは「あるがままを受け入れる」「よきかなぁ」なんですが、それでは解決できないヒトが多いのです。

私自身のことであれば「あるがまま」でノンジャッジでも変容は進みます。「今はこの状態である」ことをそのまま受け入れ「ではどうするか」という方法です。「今この状態」を「良い」とも「悪い」ともしません。「今」がこの状態であることを受け入れて初めて「ではどうしようか」という方向性が見えてきます。「今」が「悪い」とか「良い」とかとジャッジをつければ「良い状態」であるならそれを維持することに執着が生まれ、そして悪くならないかと恐れを抱くこともあるのです。「悪い状態」をピックアップしすぎれば「後悔」やネガティブな「過去」を引きづります。

あるがままを見つめ、それを受け入れる。それが私にとってのノンジャッジ。しかし、提示されたのは「方向性を示唆するにはやはり‘ジャッジ‘は必要ですよ」ということでした。

リーディングをさせていただいたりしても、それは感じます。細かいことに「それって良いこと?悪いこと?」とか「じゃあそれはいけないことなんだね」と問いかけられます。・・・・なんの枠もなくリーディング結果を聞いていられる人は少ないのです。「良い」か「悪い」に終始し、「それが今のあなたですよ」という「事実」さえもジャッジしようとするのです。

オーラリーディングや様々なヒーリングでも時々感じます。「あなたはこうですよ」と言っていただけるのは嬉しいのですが、その方の中に「それは悪い状態だ」という概念があるとすぐにそれを感じます。オーラも「今はその状態」というレントゲン写真のようなものです。それだけを見て「だからあなたはここが悪い」とジャッジをつけすぎる必要はないものです。けれど、ヒーラーの方々の中にもそれを依然として持って、そしてそれを元に方向性を示唆するのです。

確かにジャッジは必要なのでしょう。しかし、それは「あるがまま」を受け止めた先にあるモノ。初めからジャッジしまくって方向性を示唆されるのはなんだかなぁ、と感じるのです。

「同じヒトじゃん」とか「それがあなたです」とか・・・いろいろ私は書きます。それは「ノンジャッジ」の元にあります。しかし、何かを提示したり示唆したりする時は方向性をジャッジします。

「方向性」とは、「分離を元にした変容」なのか「調和を元にした変容なのか」ということです。物事を解決するときに「何を」最終形に描いているのか、ということです。

例えば、苦手なヒトがいたとします。「分離を元にした変容」だと「あのヒトがいなくても私は生きていける」。「調和を元にした変容」だと「あのヒトと上手くやっていくにはどうしたらいいんだろう」となります。いろいろな悩みや迷いをどう解決するかという時に、この変容のステップを見誤るヒトが多いのです。以前の記事でピックアップした「パワー:フォース」もまた、この原理でもあります。

世の中には本当に様々なジャッジがあります。「男」「女」から始まり「年上」「年下」、「上司」「部下」「親」「兄弟」「友人」「知人」「仲間」・・・・「地位」「権力」「立場」「職業」・・・・いろいろです。しかし、目の前にいるヒトは「ヒト」です。上司だからと年上だからと何をしても傷つかないわけではありません。親だからと上司だからと偉ぶる必要もないことです。

「良い」「悪い」はルールがあるからこそ出てくる概念です。しかし、「愛」そのものにはルールなんてありません。愛には「良い」も「悪い」もないのです。「あのヒトを好きになってしまった、どうしよう」というヒトがいるけれど、ヒトを好きになることって素晴らしいことでしょ。どうしよう、といっているのはまた別のことなんですよね。愛することは「良い」「悪い」はないのです。

どれだけジャッジをしているのか、ジャッジした目でモノゴトやヒトを見ているのか見つめてみると自分の変容の最終形が「分離」なのか「調和」なのか見えてくると思いますよ。

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言葉②

「執着」=「エゴ」とするなら・・・・。みんなすごい、だなぁ。なんでそれほどまでに執着するのでしょうか。

「愛されたい」のであれば「愛せば」いいわけで・・・。愛することによってどんな小さなことからでも「愛されているのだ」と感じることが出来る。だから「愛して!」とか「愛されているのかしら」とかに執着する必要はなく、ただただ愛せばいいだけのこと。愛されるために何かをするのではなく、愛しているからそれが出来るわけで・・・・。

ヒトを信用することでも、信用されたいなら信用することで、信用されるためにすることは信用すること、なんですよね。なのに「相手のエゴを満足させなければ信用されない」という世界がある。・・・・・「何をしていても」「あなたのことは信じています」なのになぁ。

つまり「自分の願いどおりでなければ受け入れられない」という執着があるってことです。「思い通りにしたい」という執着、「思い通りでなければならない」という執着、です。それを根強く持っていれば、相手の「自由」は認めない「傲慢」と言えます。

執着が「悪い」と言いません。というより、それが「情熱」や「生きる歓び」までに昇華できるならそれは「必要である」という「欲求」になるわけです。執着やエゴとは言わないわけです。

私が感じる執着というモノは「おそれ」が強いカテゴリーだと感じています。「愛されているのだ」ということを気づけなければ「愛されること」に執着します。「満たされているのだ」と気づけないでいれば「満たされたい」と執着します。

その「おそれ」を手放すこと。それが執着を手放す道なのだと思うのです。

エゴとして相対するか必要である、として相対するか・・・・。それだけで、「では私はどうするか」という選択肢がずいぶん変わってきます。何を基盤に何を願い、何を手に入れたいのか。そしてそのために自分は何をするのか。・・・・執着を基盤にするという事は「恐れ」を基盤にするということでもあるのです。「そうなったらいやだから」という「おそれ」です。ネガティブなアファメーションですよね。そういったアファメーションは「こうなったら」という枠もあるってことです。しかし「最善のカタチ」で叶えられるわけですから、その通りに行くとは限りません。叶っているのに叶っていない、と感じるのはそのためです。「結果」にも執着しない。「あとは天におまかせ~~」という感じです。

言葉を変換すると様々なことが理解に繋がります。自分にとっての言葉を見つめてみると案外違う変換をしていることもあると思います。探してみると面白いですよ。自分の根本にある概念が覆ることもあるし、それによって新たな選択肢が出てくることもある。今まで解決できなかった事ができたり、理解できなかった事ができたり。辞書に載っている「言葉」の意味が必ずしも自分の言葉と同じとは限らない。「そう思いなさい」と言われているだけであって、使い方が違うこともある。それをすり合わせてみると、いろんな幅が出来てきます。お試しあれ。

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言葉①

今日は「赤い惑星の蛇」という日です。エネルギーとしての本質は「本能」。

にゃんたること!と合点がいったことがあります。

私が「エゴ」だと思っていたのは「欲求」だということです。しかし・・・「エゴ」=「執着」だったってことがぴたっとはまりました。

「自分自分」は果たして「欲求」なのか「執着」なのか。

私はなんだか執着自体は薄いみたいなので、勘違いしていたのです。私にとっての「欲求」はいわゆる第三チャクラに関係する「自己主権」に関わるもの、で多くのヒトが抱く「欲求」はいわゆる「執着」というエゴが濃い意味合いなのだと。

そんなことは知らないものだから・・・・「エゴを手放しましょう」という課題に乗っ取り・・・私はこの数年「自分の中のエゴを手放す」ということを見つめてきました。しかし・・・手放せば手放すほど、なにやら???も増えていきました。最近では「私ってうんこ製造機か?」と思えるほどシンプルな生活です。・・・・つまり、私は「エゴ」が「執着」であることがよく分からないばっかりに「自分の中の欲求」の部分を手放そうとしていたのです。

1年以上も前ですが、「生きる欲求」さえもなくしかけた事もありました。自殺とかそうゆうことではなく「体のエネルギーが‘薄く‘なっている」ことに気がついたのです。それで・・・「あぁ、いかんいかん」とそれは戻しました。しばらくの間、「私は一体何が欲しい?何がしたい?」と通販雑誌を見たり、美味しい食べ物を「食べたい」という欲求を自分の中から湧き上がらせるのに集中し「生きる欲求」を維持することにしていました。

「エゴ」=「執着」であるなら、とても納得が行くのです。「欲求」=「必要である」ということ。

これまた私的にはカルチャーショックです・・・。

多くのヒトは「自分自分」でいます。それって・・・「執着」ということなのかな、ということです。「自分の思い通りにしたい」とか「こうでなくては」とか「こうなればいいのに」とか。・・・・これを「欲」だと私は思っていたのでつまりは「エゴ」だと変換していました。しかし・・・それは「執着」というカテゴリーに入るのだとしたら・・・・。全く意味合いが変わってきてしまいます。

個人的な課題としていつも「自己主権」ということがよく分からなかったのです。第3チャクラ。「あなたは何がしたいの?」と問われて「えぇ・・・と?ご飯も食べれているし、みんな素敵なヒトだし、地球は美しいし・・・・ありがたいしかないんだけど・・・?」=「これ以上望むのは‘エゴ‘なのではないの?」と感じていたのです。

でも、そうゆうことではないらしいのです。

私にとっての「言葉」として「欲」=「欲求」は私にとっては「執着」ではなく「必要なこと」だったわけですから・・・・それは手放すのは何かが違うってことなんだよなぁ・・・と。

なんだか、面白くなってきました。散々「欲」は「エゴ」であるとしてきたので、「必要なこと」に気づくことは難しかったのだと感じます。さて・・・私には何が必要なんだろう?それがいわゆる第3チャクラの学び「自己主権」なわけです。

エンジェルやマスターたちに散々「あなたの望みは何?」と言われ続けていました。「そのお手伝いをさせてくださいよ」と嬉しい言葉を散々かけてくれていました。しかし、私は「いやいや、それは私のエゴですから・・・」とお願いすることがなかったのです。だから、時々「自分ひとりでやろうとしないでもっと私たちを頼ってください」とも言われていました。

・・・本当に、いろんなことが見えてきます。この「言葉」の感覚の違いはどうしたらいいのかなぁ・・・。

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ハートチャクラ

「こころを開く」「ハートで感じるままに」「愛」・・・ハートチャクラに関係することです。

「ハートで感じるままに」とはどうゆうことかというと、きれいなものをみてきれいだな、と感じるという事です。

「きれいなもの」はヒトそれぞれ違います。同じ景色を見てもきれいだと感じる部分は違ったりします。人によっては空がきれい、山がきれい、空気がきれい・・・いろんなことで「きれい」と感じます。

ハートチャクラが上手くバランスが取れていないと・・・・例えば「昔彼に振られたときにいい天気だった」ということから、いい天気の時は気分が良くなかったりします。これはハートチャクラが閉じてしまってる状態です。何も天気がいい日をきれいと感じましょうと言っているのではなく、「理由をつけて」そのままを感じることが出来ない状態を指します。

トラウマのようなことを抱えていると、本当は美しいと感じているのにそれを「美しくないものだ」と「思って」しまいます。・・・ここがポイントです。「思う」なのです。「感じる」ではなく。

ハートチャクラは「感じるままに感じましょう」というところ。

ヒトに親切にされて「余計なことをして」と「思う」。

「ありがとう」と言われて「なんでそんな事言うの?」と「思う」。

ヒトに親切にされても「何か理由をつけて」ありがとうという行為に感じることが出来ない。本当に相手があなたのためにしてくれたことをありがとう、と感じないように自分の中で「思って」いるのです。

不思議なものですが、ハートチャクラが開いているヒトは何事からでも「良いこと」を感じることが出来ます。楽観的というか前向き、というか・・・ポジティヴなんですね。恐れが強いヒトは反対にハートチャクラに何かしらのもやがかかっている人が多いです。

日本人は不思議な民族だと思います。慈悲やわびさびなどがある文化の中で、なぜかハートチャクラの部分だけとても小さいのです。「おかげさま」という言葉があるしやおろずの神々が住まうという概念までありながら、ハートチャクラだけはなんだか小さいのです。

現代という時代がそうさせているのか。

島国で生きていくための知恵なのか・・・・。「みんなと同じ」ことで生き残ろうとする。しかし、「きれい」と感じるものはヒトそれぞれ違う。赤い色が好きなヒトもいれば緑色が好きなヒトもいるように。なのに「みんなと同じ」ことを望まれる社会。・・・・ハートチャクラがもやがかかるのもうなずけるのです。

私はすごく感じるのです。「それで生きていくのはこれから苦しいよ」と。

同じ出来事が起こってもハートチャクラにもやがかかっていると、すんなりとポジティヴに変容させられないことが多いのです。この不況や様々なことが起こる時代にそれらをすべて恐れを元にネガティブに変容させていたらそれこそ「生きる楽しみなんてない」なんていう事になりかねません。ヒトが赤い色が好き、ということに「?」と思いながら「そうだね」と言っているようでは自分で何かを引き寄せることは難しいのです。「私は青い色が好き!!」と主張できるからこそそれを自分の手元に引き寄せることができるのです。

ハートチャクラを開き、本当に自分がきれいだと思うものをきれいだと感じ、そしてそれを自分で引き寄せる。それを理解すると「嫌なこと」なんてなくなりますよ。

恐れを抱いてそしてそれを他者に撒き散らしていては、そこから発するものに引き寄せられてそれなりのもの、が手元に来ます。不況だのなんだのと社会がざわついている時代だからこそ、そういった状態でいれば「それなりの」ことを引き寄せてしまいます。

とても説明するのは難しいです。ポジティブになるために他者をどうでもいいと思うのもこれまたハートチャクラにもやがかかっています。・・・・一番説明しやすいのが「愛にこころを開きましょう」っていう表現になります。他者を排除する方向性ではないのが「愛」です。愛すること。そしてそれがポジティブな変容が成されるスパイスのようなもの。

「そこに愛はあるのかい?」と問いかけられるのがハートチャクラの学びです。

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私の世界②

上手く説明できないのですが、「ヒト」というカテゴリーが私には明確にあります。

「社会生活を問題なく過ごすこと」「他者を傷つけないこと」「秩序を守ること」・・・・「ヒトの社会のために」なのです。

「ヒトは地球にとって害だ」と自然保護の団体で極論を推奨しているところもありますが、そうは思っていません。なぜなら、この地球で生まれる生命体はどんな小さきものでも「食し」「生きる」つまり「自分で全てを生産し生きる」ことはできないのがこの地球の理です。生きるためには何かしらを「食す」つまり「相手を食べる」という行為が「生きる」ということです。

それをもっともっともっと狭めて「みんなが過ごしやすい秩序」を守るためのことが多くのルールとして存在しています。

宗教や様々な信条もそう。「豊かに生きるため」だったり「感謝するため」だったりに作られた一種のルールです。「悪いことをしたら罰が当たるよ」と「言われているから」「悪いことをしない」・・・・・ルールがなければ悪いことをするのでしょうか?

いつも記事で書く「自分自分なんだね」ということと繋がっています。

どんなときも「自分」でいる。だからこそルールがなければ相手を慮ることができないってことです。他者のために自分を動かすことが難しいらしいのです。そして、それを歓びと感じるヒトも少ないってことなのです。

「自分が満足するために」「他者を悪者にする」・・・・・これをパワーとするなら「共に満足するために双方が譲り合う」=「協調する」なのではないかな、と感じます。つまり、与えることと与えられることのバランス、です。

みんな「個」であることを経験しに今、地球にいます。ですから、「自分自分」でいることがいわゆるこの地球を楽しむルールでもあるともいえます。しかし・・・・一体いつまでそれを続けるのでしょうか。人類が誕生して数万年。現代で言えば様々な今までの人類の歴史を学ぶチャンスがいくらでもある。そろそろ「共に満足するために双方が譲り合う」ということを気づけてもいいはずなのではないかな、と感じます。自分が満足している脇で、苦しんでいるヒトがいる・・・・。あなたの満足のために。・・・・それでいいんですか?と問いたくなるのです。

時々感じます。

「本当に私を必要ない、というならば私は去ります」と。ヒトが私がいることで本当に不幸ならばそこを離れる。例え、私自身がそこにいたくても、です。いままで多くの場面でそれを感じ自ら身を引いてきたことがあります。本当は続けたかった関係も、相手の中で私の存在が嫌なもの、とされた瞬間に私は離れます。それが相手の世界で、フォースに変換された結果だったとしても。

なぜなら、穏やかであってほしいから。

私がいない世界が「幸せ」と感じるならば、それでいい。

一時期「執着がなさ過ぎるかなぁ」と考えた時もありました。去るもの拒まず、だし私をイヤダというヒトには近づかないってことだから消極的、と取られることも少ないくないです。・・・でも、相手にとっては「その世界」があるのですから、私がどんなに幸せでもそれが相手の幸せとは限らないわけです。

私にとってはいつでも共に過ごせることが幸せで、そのヒトのために何かが出来ることは歓びです。けれど、フォースの世界は際限がない。「自分自分」でいるヒトの世界で私はへとへとになります。

例えて言うなら・・・・私が5歳で一生懸命自分より小さな子の相手をしていて、あぁほっとしたいと思ったら、実はみんな私よりもっと幼い子供たちだった、みたいな。そこで私は私より大人を探すのです。・・・・それが、私にとってはエンジェルやマスターたちだった・・・というようなことでしょうか。「あぁ、やっと大人に出会えた!」という安心感、嬉しさ・・・・。それが初めて伊勢神宮をお参りした時に感じたことです。生まれて初めてほっとしたのです。あぁ、ここにいるときは甘えていいんだ、と。そのエネルギーの中で私は唯一「自分自分」でいられるのです。・・・・3歳児のおもちゃを取る・・・そんなことは出来ないからです。(本当の5歳児はしますけどね 笑)

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私の世界

5月はマヤ暦で言うと「スペクトルの月」です。

「私はどのように解放させ、成すがままにさせるのか?」ということが問われている月です。

それに合わせて過ごしていました。何を感じるのか、何を思うのか、何をしたいと感じるのか・・・それらをすべて「成すがまま」に解放してみようと。私の中から「そうではない」ということをはずしてみたのです。

すると・・・・「私の世界」が浮かび上がってきました。

先日、親戚の新築祝いがあり2年ぶりぐらいにあう叔父さんや叔母さんなどとも会うことが出来ました。・・・・純粋に「ありがとう」と感じました。なんて表現したら言いか・・・・私が生まれた頃から見守ってくれていたんだろうなぁ、と思うとありがとう、しか出てきません。

そして「どうか穏かであってください。どうか幸せであってください」としか言い様がありません。

その時、ふと「あぁ、そうか」と分かったのです。患者さんや友人、全てのヒトに私はそう願っているんだ、と。「どうか、笑って。どうか、穏かであってください。」と。

いろいろなヒーラーの方に、いつも言われていたのです。

「自分を大切に」と。「自分の世界で生きていいんだよ」と。

でも・・・そこが私には難しかった。前記事のようなカルチャーショックも一度や二度ではない。他者のために何かをすることとは真逆のカルチャーショックばかりでした。

「どうして上手く伝わらないんだろう?」「どうして穏やかであってほしいと願うのにそれをフォースに変換されるんだろう?」と不思議でならなかったのです。まるで、私が異星人のように感じてしまうぐらい不思議だった。

・・・・でも、叔父さんや叔母さんに久しぶりに会って「どうか幸せであってください」と願う気持ちは何ものにも変えることができない私の願いです。そして、全てのヒトにもそう願うのも私の願い。・・・・それが「私の世界」であることは変えようがないことを気がついたのです。

どんなにフォースに変換されていても、その気持ちは変わらないのです。だからこそもどかしいのですが。

「自分の世界を生きていいのですよ」といわれた意味がようやく分かったような気がします。私にとってはみんな素敵なヒトなんです。不器用なところやブロックがわんさかあろうと素敵なんです。「苦しまなくていいんだよ。あなたは素敵なんです」というのがわたしの世界だったのです。それを生ききればいい、ということなのだと。

馬鹿かもしれない。お人よしといわれるかもしれない。自分がない、と印象を持つヒトもいるかもしれない。けれど、それでいい。

そんな私の世界を「そんなきれいごとな世界なんかないんだよ」と踏みつけるヒトや物事は私には必要ない。「あなたはそう生きればいいじゃない」ということだけ。「きれいごと」と言うけれど、「きれいなんだよ」ただそれだけ。

「ヒト」というカテゴリーしかなく、親も友人も知人も仲間も全て「ヒト」。そこに私にとって境界線はない。地球も宇宙もすべて。

みんな、「今」という時を同じ「地球」で過ごしている。そのことに感謝してる。出会えたこと、共に時間を過ごすこと、励ましあったり笑いあったり・・・・そのことに感謝してる。

「そうではない」という価値観を解放して、見えてきたこと。

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カルチャーショック

ちょっとびっくりするようなことが発覚いたしました。

今まで私の中ではヒトと付き合っていく中で、必ずしていたことがあります。それは「いつでも会える様に自分の都合をあわせていた」ということです。最近、家族にはそういったことは主張できるようになってきてはいましたが、家族ではない場合ヒトと会うってことは、双方が「会いたい」と思い、双方がそれに合わせて都合をつけるものだと思っていました。

ここまではいいとして・・・・・。

私は例えば誰かから「今日空いてる?」と言われた場合、①どうしてもずらせない用事がある場合②以前からすでに決まっていた用事がある場合以外は「空いてるよ」と答えていました。②に関しては様々ですが予定はしていたけれど、ずらせる用事ならば「空いてるよ」と答えていました。

なぜなら「相手が会いたいと思っているからそう聞かれる」と感じますし、そもそもずらせることならばずらします。そうしなければいつまでたっても「会う」という行為には行き着かないと思っていたからです。

けれど・・・・最近判明したのは・・・・「ずらせる都合だけれどずらさない」というヒトの方が多い、ということです。・・・・ほよよよよよ??

ってことは・・・・極端ですが・・・「自分の都合のいいときだけ会う」ということです。

「相手に合わせる」ことは?二の次、なのか?

それを最優先にしている私が少数派なのでしょうか?

例えば、「買い物」・・・・私にとっては「いつにでもずらせる用事」です。掃除も洗濯もおおよそ日常で行うほとんどは期限があるモノでない限り「ずらせる用事」です。それを優先して会う機会を逃し、そしてそれが最後の機会だとしたらもう二度と会えないこともある、と私は思っています。恐れているわけではありません。「タイミング」ってあると思うのです。

相手が「会いたい」と言ってきているときに会わないでいつ会うのでしょうか?自分が会いたいときに会えるとは限らないでしょう?

ちょっとカルチャーショックでした。飲み会やいろいろな食事に行ったりしていたのも、私の場合「いつでもいいよ」と答えていました。ヒトにはそれぞれいろいろな用事があります。だからこそ「会えるときに会おう」と思っています。しかし・・・「ずらせる用事を優先」して「飲み会の日程」が組まれているとは想像もしていなかったのです。

「そのレベルで言っていたら私にだって都合の悪い日はあったのよ」みたいな感じです。

あ~~びっくりした・・・・。

なんだか不思議です。ここでも「自分」なんだぁ。ってことは・・・出たくないから電話にも出ない、ってありなんですね。用事があるから電話してきてくれているのだし・・・といつでも真面目に出ているのは少数派なのかなぁ?

いろんな価値観があってびっくりです。

「もっと自分を大切にしましょう」と言われるのはそういったことなのかなぁ・・・。

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リアリティ:アクトレス(女優)

以前、リーディングをしてもらったその方はこう言いました。

「私は相手に合わせて演じますよ」

と。それってどうゆうことだったのか、今になると納得の一言です。

前記事や私が書く記事の中でいろいろと書いてはいますが、「どう生きてもいい自由」があることも、「何を考えていようが良い自由」が私たちヒトには一人ひとりにあることもわかっています。

私は「相手の世界」を痛切に感じてしまうこのやっかいな特性をなぜ持って生まれたのか、とても不思議でした。ほとんどのヒトはこの感覚は「想像」だったり「慮る」や「そうなのかな」という客観性を維持しながらの感覚なのだと思います。しかし、私の場合は「リアル」に察知します。これは自分でもはじめは信じがたいことでしたが、それを伝えるとやはり一致しているということの裏づけが取れてしまいました。

いろいろと書いている中で、時々自分でも不思議になります。

「相手が何を考えていようが、何をしていようが私のことではない」と分かっていながら、リアルに感じてしまうばかりに「相手のその世界の自分を演じ続けている私」がいることです。いちいち「そうじゃなくてね」と解説するのも疲れます。

相手の世界がフォースである限り私の言葉はフォースに変換されます。そして、何をしていても私はフォースの姿でそのヒトの世界にい続けるのです。それを私はリアルに感じます。あぁ、今ネガティブな感情を抱いたな、とか。

それだけなら「ふむふむ」で終わります。しかし・・・・そういったヒトは多くの場面で他者を自分の中で悪者に変容し、いつしか悪口を言ったり、時にはいじめたりします。

・・・それに納得がいかないのです。「あなたはどう感じていてもいいさ。何を考えていようと。でも・・・それをまき散らすのはどうなの?」と。私にとってはいささか理解できない。

エネルギーの面でもネガティブに染まってしまうとそれをエネルギーとして周りに充満させます。どんどんと自分でそのエネルギーを充満させるから、どんどんそういったことを呼び寄せてしまいます。

・・・・それを見ているのが正直疲れます。自分で苦しみを作り、そしてそれを他者のせいにし、そして周りを巻き込もうとする不安を怒りに変えて発散させているのです。・・・それでは、どんどんヒトは離れていくし「愛されたい」という思いを「愛す」という行為には変換できません。

「私はいつまであなたのその世界を演じていればいいですか?」

と感じてしまいます。「ありがとう」をそのまま「ありがとう」という感謝の言葉だと感じてくれるにはどうすればあなた方は納得するのでしょうか。

本当の自分を見せる・・・?よく分からない言葉です。いつでも私は本当の私でいるのです。

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リアリティ:変容させている

ヒトは「自分の中で全てを変容させて」います。

私が「最近頑張っているね」と声をかけたとします。

恐れが強いヒトは「じゃあ今まで私は頑張っていなかったように見えたんだ」と変容します。そうでないヒトは純粋に「ありがとう」と感じます。

人々の中での変容にこれまたほよよ?となります。

どんなに誉めても認めても、そのヒトの中でネガティブに変容されていくことにたまに疲れます。何を言っても「あなたはそうゆうキャラクターだから」というフィルターをかけられ、勝手にネガティブに解釈しそして、その感情をあらわにしてくるのです。

「頑張ってね」は「頑張ってね」でしかないし、「ありがとう」は「ありがとう」でしかないのに。

「もっとこうすると上手くいくのではないの?」と言っても「それを出来る自分」を信じていなければ「どうせ私はそれが出来ないんです」と変容されます。・・・・出来ると信じているのは私だけですかい?と言いたくなります。

「パワーかフォースか」という本があります。あぁ、まさにそうだな、という表現です。

「行うこと」:「得ること」

「共感すること」:「哀れむこと」

「感謝すること」:「義理があること」

「率直な」:「計算高い」

「思慮深い」:「手ぬるい」

「立ち向かうこと」:「侵略すること」

「受け取ること」:「握ること」

「信頼すること」:「依存すること」

「つましい」:「安い」

「励むこと」:「あえぐこと」

「礼儀正しい」:「こびへつらう」

左がパワー:右がフォース、です。

私が「信頼」を寄せていても、それを依存として受け止められてしまう。率直に言っても計算だとされてしまう。・・・・・パワーで提案してもフォースに変換されてしまうのです。

「ありがとう」をどう変換しても「ありがとう」のはずなのに・・・・。

時々「じゃあ、どう言えば君たちは理解するのかな?」と感じます。「感謝」という一言でさえも「こうされたから」「感謝するわ」なのです。・・・・それって義理でしょう?と問いかけたくなります。「こうされなくても」感謝は感謝なはずでは??義理だと思っている限り、自発的に「ありがとう」という行為には到らないものです。「こうされたから」の部分に「返す」という範囲に留まるのです。慮る・信頼する・・・・そういったことが「義理」でしょうか?

自分がどれだけ「フォース」に変容させているか、見つめてみると自分の中の様々なブロックが発見できます。そして、どれだけヒトというモノを信じていないかも見えてきます。

好きなヒトが何をしていても素敵なように、どんなヒトのことも素敵に見ることが出来るのです。いい加減、フォースから離れましょうよ。

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優しさはヒトをダメにする?

前記事とも重なるのですが、あまり個人的にはそのヒトがどんなヒトであれそれがそのヒトのあるがまま、と感じています。みんな素敵なところを必ず持っています。ほよよ、と思う前記事の様なことがあっても、「まぁ、そうなんだろうな」と思ってしまいます。

「良い」「悪い」ではなく「ほよよ??」なのです。そして「ふむふむ」となり、「まぁ、そうなんだろう」と。

これを繰り返し繰り返ししていると、不思議なことにもっと「ほよよ??」な感じになります。

「何をしても受け入れてくれるヒト」という「ほよよ??」に繋がっていくのです。

かといって、私がそれをし続けることが苦痛になることは滅多にありません。しかし、不思議でならないのです。どんどん横柄になりどんどん「当たり前」となりどんどん「何をしても良い」となっていくことに「ほよよ??」なのです。

そこで、考えてしまいます。

「私のこの受け入れ態勢は実は相手にとってはどうゆうことなのだろう?」と。

私自身は問題には思わないのですが、平気でヒトがしてくれていることを「当たり前」と思う傲慢さを助長してしまっているのではないかな、と感じてしまうのです。かといって、それを伝えるにもイマイチ理由がない。「それがあなただから」という私の感覚でいうと、です。

とても、不思議な感覚で過ごしたりします。「それがあなたなのだけどね」と思っているのに「でもその傲慢さを手放そうよ」と提示するのです。・・・・ルールがないと、そんなことも分からんのか?と投げかけるのです。

「感謝することがない」のは最たる「傲慢」です。

「なぜ、そうして今生きているのか」=「なぜ、そうしてその関係を築けているのか」ということに傲慢になっていく周りの人々を目の当たりにして、最近はよく考えさせられます。

「無条件に受け入れられることが信じることが出来ない」という恐れが傲慢さを生み出しています。「こんな私でも受け入れられるの?」とどんどんその姿を見せつけて「それでも私を愛していると言うの?」と叫んでいます。

・・・・・なにがそんなに恐いのでしょうか。恐れるのでしょうか。

「だってそれがあなたじゃない」と言われるのが恐いらしいのです。全てを受け入れられることが不安なのです。そして、「そうではない」方向の行動を重ねるのです。

優しくされて傲慢になっていくヒトほど、恐れが強いのだろうなぁ、なんて感じる毎日です。

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自分を大切にすること

私は今まで「自分を大切にすること」という事がよく分からないでいました。

エネルギーで言えばラファエルの「癒し」という事が今、私のテーマとなっています。自分を癒すとはどうゆうことなんだろう?と長い間の疑問でしたが、最近それが顕現し始めています。「自分を愛する」とも言われていることなのですが、イマイチどうゆうことなのか理解できなかったのです。

最近感じたのは、私にとってヒトの話を聞くということはあくまでも「全て」としています。前記事にも少し書きましたが、相手が話したいことを全て聞きます。こうゆう事は聞きたくない、とか、この話題だけ、とか枠はなく聞きます。だって、どんな感情でもどんなことでも「そのヒトのあるがまま」ですから、私が「こうゆうことだけを聞きたい」と枠を決める必要はないからです。

・・・・けれど、多くのヒトにとっては「それは聞きたくない」という枠があります。私にしてみると、なんだか不消化な部分が残ります。話をしながら「あ、ここは聞いてはもらえないんだ」と考えながら、話したいことを話すわけではないからです。

仕事中の話を指しているのではありません。例えば、人に話を聞いて欲しいな、と思うときとか友人と結構深い話をしている時の話です。私の中ではどんな話でもそのヒトであることに変わりはないのでその話を聞いて「不快」だ、とかいう意識はあまりないです。なので、相手が話したいことを話してもらっていい、と思っています。

例えを書くと・・・・ある時友人が「私は死にたい」という話題になったとします。だとしても私はその話を聞きます。では、どうしたらいいんだろうね、と本当に思うから。けれど、時が変わり私がそうしたダークな悩み事があるときには「私はそれは聞きたくない話題だわ」と聞いてもらえないことが多いのです。

聞いてあげたのだから聞いて欲しい、ということなんかではなく・・・・なぜ、「自分」ばかりなのかなぁ?と本当に不思議です。どこに行っても、どんな話題でもそうです。「自分」が話したいことは話せる環境に在りながら、それに気づきもしないし、そして自分もそうした環境を作ろうとも思わないのです。いつでも自分、自分。

こういったことが最近顕現が著しいです。ダークな話はもうすることはあまりないし、楽しいこと嬉しいこと、こんなことあるよ、あんなことあるよっていう話が多いです。しかし、そうでさえも一方通行が多いのです。

自分を大切にする、とどう絡むのか、ということですが・・・・。

「そういった関係は果たして私の歓びだろうか」

「自分は無理をしていないか」

「きちんと自分を主張しているか」

などなどが挙げられてきました。今まで???と感じながらいたことなのですが、けしてそれは無理をしていることではなかったし、話を聞くことは本当に私にとって「そのヒトのあるがまま」の姿を聞くことなのです。しかし、そうしたことを感じるときは私の「あるがまま」を見せられないことに???と感じていたわけです。

感覚の違いはあるのでしょう。けれど、最近はどうもそうゆう関係にはいい加減疲れてきているのだという事も分かってきました(分かるようにモノゴトが起こっているので分からないなんてことはないのです 笑)。

「自分を大切にすること」・・・・「与えることと与えられることのバランス」なのだな、と感じています。

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かわいそうだから・・・?

日常でよく耳にするのが「かわいそうだから・・・」という言葉。

この言葉に集約されている様々なことがあり、この言葉を追求していくといろんなことが見えてきます。つい、「かわいそうだから・・・何?」と聞いてみたくなるようなこともあります。

重要なのは「それならば、何をするか」ということであって、「かわいそうだから」で止まってしまっていては何も始まりません。

しかも、かわいそうだから→行動、というものを上手く繋いでいけない場合があります。選択肢が「感情論」になってしまうとその方向性を見失ってしまうのです。行動するのはあくまでも「実際」。感情で全てがまかなえることはないのです。

「かわいそうだから」と「行動」の間に一体何が含まれているのか、ということです。

相手のためを思って何かをするとき、そこに「自分への見返り」を期待して行うと純粋な相手のためではなく「私とあなたのため」という行動になります。

かわいそう、も同じです。かわいそうという自分の感情に埋没してしまえば、相手に今一体何が必要か、ではなく「私がかわいそうだと思うからこれをやる」というものも含まれるのです。「私が」・・・・?正直「あなたはどうでもよろしいよ」というところです。かわいそうな境遇にいるのはあなたではなく「相手」であるのに、「私が」かわいそうだと思う・・・・。矛盾していると思うのです。・・・・そういったことが含まれていると「私のかわいそうという感情を解決するための行動」となっていってしまうことがあるのです。

本当にそれが相手のニーズに沿っているのかどうか。

「かわいそう」なら「何をするか」なのです。

時には話を聞いてあげることだけでもいい。時には何かしらのアクションをすることが相手のためになることかもしれない。時には憎まれることでその役目を終えていることもあるかもしれない。

けれど、「私が」という感情論に埋没してしまうとそこに「自分の欲求」も絡んできます。そうすると憎まれることが嫌なヒトは憎まれ役は受け付けません。話を聞いてあげるといいながら聞く耳を「ここまでならね」と自分の枠を決めます。相手が話したいことを話してもらうのではなく「聞きたいことを話してもらう」ということになります。アクションを起こすときにも、「自分に出来ること」の中からさらに「これならいいよ」と枠を決めます。

・・・・・本当に「かわいそう」と思うなら、「相手のこと」なのではないかな、と思います。

もちろん、「自分に出来る範囲のこと」であり無理をする必要はありません。しかし、感情だけではヒトに何かをしてあげることは難しい。冷静に見つめれば「欲」なのか「自分の出来る事なのか」という境界線が見ることができます。感情を解決するために何かをする、のではなく「相手のニーズに自分の出来る範囲で行動する」ということです。

遠回りをしているように見えて、実は率直です。「あなたってかわいそうね」と同情されることを望んでいるヒトならば同情してあげてもいいですが、そうではなく相手が何かしらの解決策やアクションを望んでいるのであれば、それについて行動することです。相手の感情をやわらげてあげるには、それに対し「何をするか」。一見繋がらないように見える行動でも、本当に相手のニーズに沿っているならば、いずれ相手の感情もやわらいでいくのです。そして、実際の問題も解決に向かうのです。

「かわいそうだから」と思うことについて、自分がどのように行動を起こしているのか、そこには自分の何が含まれているのか見つめてみると意外なことが見えてきますよ。

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宿命②

例えば・・・私はどこから見ても「日本人」です。親や環境その他もろもろから見て。それなのに私が「私は金髪の白人女性でアメリカ人です」と言い張っても「そりゃあ無理があるよ」ってなわけで。モンゴロイドだし黒髪で彫りも深くない。親だって生粋の東北人でどうみても白人には見えない。・・・・・・つまり、これが宿命の部分。

しかし、例えば親が若い頃アメリカに渡り、そこで私は育ち英語もペラペラ、基本的概念もアメリカ社会に根付いていたとしたら・・・・つまり、これが「個」としての部分。

こういったことを「自分」というスピリットに焦点を当ててみると、「なぜ自分はこの自分で生まれているのか」という部分や「何が出来るのか」などが見えてくるわけです。

生まれ持った特性を「宿命」とし、そしてそれを最善のカタチで行使する。

カタチはどういったものでもよくて、「最善に発揮される状態」であればいいのです。

今の自分に当てはめてみると・・・例えばNS。看護という仕事は私のカタチとしてはまずまずな感じ。けれど、もっと細かく言えば「人体の理」を知り、それを行使することが実は楽しい。「こころ」もその中に入るし、「意識」もその中に入る。「これこれこうだから‘こう言えばいいんです‘」という教科書的なことは興味がない。一つの病気があっても患者さんの数だけ症状の出方も違う。もし、これが一辺倒に「全ての患者さんに同じ様に症状がミリ単位で同じ」であればそれこそ興味がない。全ての患者さんの数だけ症状も違えば、こころも違う。もちろん意識も違う。だからこそ、私の中の最大の特性である「創造性」が発揮される。・・・・つまり、これが私が客観的に見て「看護」が私にとってまずまずな「カタチ」である理由でもあるのです。

私にとっての「宿命」な部分は、「創造性を発揮できること」=「創造性を発揮すること」という大きなものがあります。それが発揮できないものは興味がない、というのが実際のところです。けれど、それは「看護」でなくてもいい。こうして探求を続けているのもそのひとつ。創作はその際たる特性でまさに「創造性を発揮する」という「カタチ」。

どんな仕事でもどんな環境でもこの「創造性」は発揮できるものです。しかし、「ある一定のルール」を守りながら行使されるのがいわば「仕事」。そのルールを納得できれば私の場合はどの仕事でもいい、ということになります。(看護のルールは‘メディカル‘というもの)

こうして見てみると・・・・様々なことを経験できるようになっているなぁ、と感じます。たぶん、他のヒトと何かをするときでも私はこの「創造性」にこだわるだろうし、それを行使できることを好むと思います。一風変わった行動もしかり。それを「こうしなさい」と押さえつけられることに猛烈に反発するのも理解できる。(占いでは‘斜にかまえる‘と表現されてしまいますが)環境や状況が「安定」し「動かなくなる」「固定されてくる」と私は猛烈に動きたくなります。・・・そこには「創造性」が薄いってことですから。「こうしなさい」という枠が出来上がってしまうと、それを超えたくなります。もちろん、それは変容であって破壊ではないのですが。

「青い惑星の嵐」という特性もますます理解できるわけです。

多くのヒトが、自分の特性や宿命を理解し、受け入れそれを最善のカタチで行使することが出来ればいいな、と思います。

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宿命

「宿命」・・・結構慣れ親しんだ言葉です。けれど、私にとってそれが何を指すのか分からないでいました。「運命」に関しては早い段階で「創り上げるもの」と理解したのですが、どうも「宿命」というものが何を指しているのか、理解しているようで難しかったです。

例えば「生年月日」からはじき出される様々なデータ(星座や暦、易、特性、長所短所・・・等)から読み解けるものは多々あります。なぜ、生年月日からそれらをはじき出すかと言えば「なぜ、あなたはその瞬間に生まれたのか=これら特性を持って生きることを選んで生まれた」ということです。地球以上の世界を含めるなら「宇宙があなたに何をして欲しいか」「天があなたに何をして欲しいか」=「それらをするためにあなたはその年、その月、その日、その時間に生まれた」とも言えます。

『全』としての部分が上記で言う「天があなたに何をして欲しいか」であり、『個』としての部分が「これらの特性を持って生きることを選んで生まれた」ということです。それがマッチしたからこそ「誕生」という瞬間が訪れたわけです。言い方を変えれば「私という‘個‘としてのスピリットと、天という‘全‘との契約」みたいなものでしょうか。

それなのに・・・私は今まで「何が宿命なのか」ということが分からなかったのです。どちらか側からしか見ていなかったのです。「個」なのか「全」なのか・・・という「どちらか」です。だから、「全」として出来ることと「個」として出来ることが重ならなかったし、「どうして私はこんな風な特性を持って生まれてきているんだ?」とイマイチよく分からなかったのです。

「全の一部として担っていること」=「個として活用する特性」がマッチすることが、すなわち「たましいの道」である=「宿命を受け入れる」ということなんだろうな、と今のところ結論が出ました。

分かりやすく書くと・・・・「奉仕」を特性として持っているスピリットは「何をしていても」それは「奉仕」であるのですが、それが「個」として「何を行使するか」ということ。「カタチ」です。「母」となり「奉仕」とするのか、「どんな仕事」をして「奉仕」とするのか、みたいな。中には「悪」というカタチで「奉仕」としているヒトもいることでしょう。(全としての視点です。それらがあることで‘それが一体何なのか‘を知る、ということが出来るのですから)

「今自分は何をしているのか」という自覚が「宿命」を理解する道だということです。そして、それらをきちんと行使できる「カタチ」を手にしているかを見ることが「たましいの道」を見つめる作業なのだということです。

昔から「何をしてもいいですから、それを極めてごらん」と言われていました。「何をしてもいい」という言葉に「??」がついて回ったのです。つまりは「私が何を‘カタチ‘として選んでもいいんですよ」ということなのです。どんな仕事でもどんなことでも私は私を生きている限り「全の一部」であることに変わりはなく、「天との契約」のままに存在している訳です。今のところは「カタチ」として「NS」を選んでいるわけです。

・・・・こうして見てみると、「どこへ行っても同じ様な学びが来るんだよなぁ」っていうことの理由が分かってきます。「カタチ」はどうであれ「起こるべき事が起こり」「成すべきことが成されている」のですから。

1ヶ月前ぐらいにこの「宿命」を受け入れました。そしたら・・・・いろんなことがクリアになってきています。まだまだ、うまく最善のカタチで私の持ちえる特性を行使できる段階にはなっていませんが、少しづつ「たましいの道」と「カタチ」が一致し始めてきています。面白いなぁ・・・。

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私にとって

少し前に「オーラリーディング講習会」というものに参加してみました。オーラを視ることが何に繋がるかは分かりませんが、とりあえず行ってみよう、ということで。

その時の講師の方に言われたこと。

「まだ、何にゆだねるか決まっていないんですね。」ということと、「これはちょっと大変ですね。」ということでした。

「まだ何にゆだねるか決まっていない」ということも自分では分かっていて・・・・。例えば、人によっては「仏教的概念」だったり「キリスト教的概念」だったり、いろいろと「信条」があるものです。根本を追求すると「同じ」ことなのですが「マイトレーヤ」なのか「布袋様」なのか「薬師如来」なのか「ガブリエル」なのか・・・という、いわゆる「表現の仕方」なのですが、私にとっていまだしっくりくるものがないのです。(マイトレーヤもガブリエルも‘喜び‘というエネルギーを現すものです)

「表現の仕方」「系統」様々に言えると思います。

イマイチしっくりこないのは「同じじゃん」って感じてしまうことで・・・・わざわざ「分けて」考える必要があるのかさっぱり分からないのです。もちろん、「背景」がはっきりしていると「意図」も設定しやすいし、発動もしやすい。けれど、それを総括したものがないのかどうかを探求している段階なのです。密教のマントラを唱えるのか、エンジェルたちに「お願い」をするのか・・・はたまたきちんとした「儀式」のようなことをして発動するのか・・・・・。

そういったことが「まだ決めかねている」ところなのです。

その作業も着々と進み「オリジナル」を構築している段階です。私にとって一番私の意図を乗せやすく、そして発動しやすいカタチを模索中なのです。そのためにいろいろなエネルギーを身を持って感じてみたり、学んでみたり・・・・。

「これは大変ですね」と言われたことは、どうやら私の頭の後ろの方にがっつりと繋がってしまっているらしいのです。「わたし」と。つまりは「ハイヤーセルフ」と言える存在。「大変」というのは「あまりに高次なところと繋がってしまっていて実生活と繋げるのが難しいだろう」ということらしいのです。

・・・これも、納得、のことでした。一人でいるときはダイレクトに繋がっていて楽、です。しかし、外へ出ると様々な「ジャッジ」がついたことで回っている世の中と渡り合わなくてはならない。私にとっては正直「どうでもいい」と感じることが、周りの人にとってはとても大事なことだったりします。(意地やプライドや見栄、恐れなどにしか感じないのですが)

それらを切り替えるのが結構大変なのです。「どうでもいいこと」にこだわっている世界でグルグルしている人に「それってどうでもいいんじゃない?」と言っても通じません。

「どうでもいい」とは「そこじゃないよ」ということなのですが、どうもそれを伝えていいかも分からないし、そもそも「そう生きていてもいい自由」がそのヒトにはあるわけですから・・・・。

私にとっての「探求」はまだまだ続くようです。どうしても、まだ私の中に「普通でいたい」みたいな変な感覚があって・・・・。変人が何を言うか、と友人には言われますが。私はこうして生きてきたので私にとって私はあくまでも普通で・・・・。ヒトと比べると変人な訳で・・・(笑)。

ここ数年でいろんなことが分かってきました。それをこれからもチョロリチョロリと書いていきます。

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新規に

長々と続いていたこのブログも時々削除などをしていたのですが、ようやく踏ん切りがつき新たに書いていこうと思っています。過去の記事は削除しましたので、あしからず・・・。

いろいろなことに整理がつき、書いていきたいことも日々変わっていくのでそれに合わせて・・・という感じでしょうか。探求は日々続き「あぁそうか、あぁそうか」みたいに初期のころとはだいぶ変わってきています。

過去の記事は後から見ると「こんなことをこの時は感じてたんだなぁ」なんて振り返れるのですが、自分自身でも「きちんとまとめる」ことがイマイチな状態だったので、過去の記事と重複はしていくとは思いますが、日々の探求道を徒然に書いて行こうと思っています。

前回までの記事を長々と読んでくれていた方々、ありがとうございました。

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