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2009年7月

リーディング

リーディングや例えばレイキ、スピリチュアル・・・そうゆう世界に興味がないヒトもたくさんいます。それはそれでいいのです。

これはいつかそのヒトが見てくれたらいいなぁ、ということを書こうと思います。

「悪魔にたましいを売ってるから」というヒトがいます。・・・・私から見ると真逆なのです。「いや、あなたがしていることは慈悲そのものじゃあないですか」と。

自分に厳しく、ヒトに優しすぎるぐらい優しい。優しいからこそメディカル、というルールの中で日本というルールの中で「悪魔」と称するようなことをしなければならない。それを自覚している時点で「慈悲」なんですよ。本当に悪魔にたましいを売っているならばそんな言葉は使いません。

自分がしていることを「悪魔」と表現する事事体で、すでに慈悲となっているのです。そこには自分自身の葛藤や「もっとこうできるはずなのに」とか「もっと出来ることはないのか」とかという自分への投げかけがあるからこそ「悪魔」という言葉を選ぶのです。「そうではない」という想いが自分自身を貶めるような言葉を選ぶのです。

もちろん「自分がしていることは慈悲だから」なんて公言してしまうのはこれまた?ではあるのですが。

いつも思います。ストイックなまでに自分に厳しく、言いたいことはたくさんあるだろうにそれを言わずとただただ自分が成すべきことをこなそうと一生懸命働いている姿を見ると「自分を大切に」と。あなたは十分に頑張っているし、十分愛されています。信頼もされているしみんなの支えにもなっている。どうか、穏かであれ、と。

興味がないヒトに、こんな話をするのもどうかと思うので伝えることはしていません。

しかし・・・・時々、自分を責めているような節があるのでもどかしくなります。責めなくていいのに、と。もっと、言いたいことを言っていいし、もっとガンガンに攻撃的でもいいのに。

数年前に亡くなった方が言っていました。「あんたはよく頑張ってくれた。本当にありがとうって伝えておいてくれ」と。それを伝えたいけれど、どうも霊だの何だのにはイマイチな印象があるのでこれまた伝えられていないです。

価値観の違いや信ずるところが違うのも個性。信念を何に見出すかも自由。

・・・・もどかしいなぁ。いつか、伝えられるといいのだけれど。

こんな感じの「伝えたいけれど伝えられない言葉」はたくさんたくさんあります。多くのヒトに。「そこはこう捉えればいいのに・・・。なぜ、苦しむ方を選ぶのかなぁ」みたいなことばかりです。私の印象が恐いイメージなのか「怒られるかと思った」という方が多くいます。怒る立場にはございませんよ。かの占い師のように怒ったりはしません。よほどでないかぎり 笑。

神様が「それでよい」と「よきかなぁ」とその存在を認めているのに、私ごときが怒るなんてことはないのです。でも、「こうしたらどう?」とは伝えたいと思います。そして、そうしなくてもいい。あなたの意思ですから。私のリーディングは「答え」を出しません。ただ、伝えるだけです。方法や方向性を「こんな側面もあるんだよ」と提示するだけです。そして、その先の「どうするか」は相手の自由ですから、ご自由に選択すればいいのです。

身の回りにいる人々の様々な事を感じます。それをどう伝えていいのか、そもそも伝えることにどんな意味があるのか・・・・いろいろと学んでいます。

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「ひとり」ということ

前記事で書いた、「ひとり」ということ・・・。

この数ヶ月「限界ヨロシク」を体験しました。「あなたの人生を歩みましょう」という学びと共に。

その途中、こんな言葉を目にしたのです。

「あなたが自分自身を犠牲にしてまで他者に奉仕することは宇宙が阻みます」と。

さらに・・・

「崇高な対象でないモノに奉仕することは一種の犠牲です」というようなこと・・・。

この言葉がどんな意味なのか始めは分かりませんでした。ですが、「宇宙がそれを阻みます」ということはなんとなく分かりました。「スピリット」というような大きな側面から言えば、「あなたのしあわせ」を様々な存在たちやエネルギーたちがサポートしてくれています。実際、自覚していない部分のことも丸分かり状態な訳で・・・・。

ですから、「自覚して」「自意識」で「これが最善だ」とか「これをやりたい」とか思っても、それがスピリットの領域では「私のスピリットの経験したいことではない」となぜだか変なほうに行ってしまうのです。それは、自分自身の人生でもってめいいっぱい経験したことです。

つまりそれが「宇宙がそれを阻みます」っていう言葉になっているんだろうな、と感じます。

「崇高な対象でないモノに奉仕することは一種の犠牲です」・・・・これはちょっとどぎついなぁと感じました。私はけして博愛主義者ではないです。でも、「奉仕する」とか「しない」とか考えて行動しているわけではないから・・・・。なんでこの言葉に出会ったのか始めは分からなかったのです。

ノンジャッジ、「あるがまま」をメインで学んでいるのに、なぜ「崇高な対象ではない・・・」という言葉に出会うのか。それってジャッジしろってこと?と少し考えてしまいました。すると・・・やはり日常の中でそれらは「やってくる」のです。バシバシと。「これは崇高かい?」と何度も何度も。見せられるのです。「これでも『これ』を崇高だというの?」みたいに。

そして「それにあなたは自分を犠牲にしていませんか?」と問われるのです。どぎついなぁ。いつも書いていることですが、私の職場は「死」が身近にあります。死ではなくても「私が今これをしなかったら何が起こりうるのか」ということを常に感じながら仕事をしています。おそれではなく、純粋に「自分の行動」が「結果」を生み出すことを実感できてしまう仕事です。・・・そんな中で見せられるのは本当にどぎつい。

ある人に「死は必ず訪れる。その瞬間が来ることは寿命だよ」と言ったら「じゃあしょうがないね」と・・・・。は?「しょうがない??」ってなにかなぁ・・・?「だからこそ精一杯やる」とは感じないんですね。そのヒトはそれから数年間もずっと「だからこそ・・・」とは感じないままでいたようです。「結果」として、それをこうむるのは私ではなく患者様、なのですね。

「痛い痛い」と言っている患者様に「しょうがないでしょ。」と言ってのけるのです。それを「どうすればそれを少しでも軽減させてあげられるか」とは考えないのです。

で、「あなたは自分を犠牲にしていませんか」とか「崇高な対象のモノ」とかとどう絡むか、という事なのですが。

上記のようなヒトはそれほど珍しくはありません。全ての情報を変容させる時にフォースへと変容させてしまう。つまり「自分自分」。そしてそういったヒトは多くの行動の中でもその「自分自分」をはずせないのです。ですから、なんでもないことを「嫌なこと」と捉え、周りにそれを投げつけます。・・・・正直、不快そのものです。それに加えてそうゆうヒトに右往左往させられている周りのヒトを見るのも疲れます。

「不快に感じている」自分自身を私は見ようとしていなかった部分があったのです。

「疲れる」とはそういったことなのだと感じたのです。自分に無理をしているという自覚はないのに、いつしか「そう思ってはいけない」という部分があったのです。

「私は自分が不快と感じないコト・モノ・ヒトと触れ合おう」と思いました。選ぶ、でもなくジャッジでもなく・・・・「自分のあるがまま」を認めよう、と。

「ひとり」を気づかせるためにいろんなことが起こりました。でも、とても有意義でその中で培った友情や愛情、経験、叡智は計り知れません。ありがたいことです。

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新年

マヤ暦で7月26日から新年となりました。

この暦でいう「昨年」は・・・なんというか自分の中がめまぐるしい日々でした。そしていろいろなヒトと出会い、別れ、身の回りのヒトとの関わりも変化しました。

面白いのは昨年中にヒーラーさんや出会ったヒトに言ってもらったことのほとんどが今になってみるとそのまま「昨年のテーマ」ともいえる形で、怒涛のようにそれは合点がいき、今では「こうゆうことを言っていたのね」と理解できているのです。

自分の中の何かが変わってきている気がします。

上手くは説明できないけれど・・・・原点に戻った感じです。

「ひとり」という原点、です。

ヒトは生まれるときも死ぬときも「ひとり」です。もちろん生きている間も。私はそれを分かっていたはずなのに、繋がってしまっていたのです。

自分では理解できていることなのに、他者にはそれは理解できないことも多い。だからこそ、いつも自分が勝手にしている「共感」を他者側からしてもらうとめちゃめちゃ嬉しいのです。そして「分かり合えるかもしれない」と嬉しくなってしまう。そして「同じなのかな」と愛や楽しむこと、嬉しいことたくさんたくさん感じようとする。・・・けれど、やっぱり「違う」んですね。

私にとって「愛」でも他者にとっては「依存する相手」として認識されていたり、私にとっては「仁義」であることが他者にとっては「依存できない相手」と認識されていたり・・・・。

大元の価値観があまりにも違うことを、愕然とした想いをすることで「ひとり」であることを理解しました。

「あぁ、私は私の人生を歩まなくては」

と、今更ながらに理解したのです。「分かり合える」というのもたぶん、ヒトが使用している「分かり合う」とは意味合いが違うと思います。依存でもなく共感でもなく・・・「繋がる」という感覚です。例えば「富士山」を見て個々に「美しいな」と感じる、でもそれを自分流に「繋がる」で説明すると「個々で美しいな、と感じるのと同時に富士山のエネルギーに触れ合う」ということです。富士山を通して私と他者とが「繋がる」のです。個々同士が繋がるという事ではなく。

そうすると「ほんときれいねぇ。美しいねぇ。」がシェアできるのです。対象物に純粋に繋がる、こと。そして「うふふ、えへへ」とほんわかなる。

それらを「個々の」感想として皆さんは言葉にする。でも・・・「共感している」というカタチを取ってくれていても・・・・やはり「違う」のです。多くのヒトは「個々で感じていること」にだけ焦点を当てている。私は「富士山を感じている」のです。「自分がどう感じているか」と「富士山を感じる」が同時に在るのです。

・・・そういった「繋がる」という感覚を持つヒトを探していたように思ったのです。ですが、もう探すのはやめよう、と思っています。なぜなら「私は私」だから。

自分の身の回りでその感覚をシェアできるヒトを探すというのは・・・なんだか同じところをグルグルしている気がしたのです。だから「私は私の人生を歩もう」と。

そして自分のその感覚で人生を歩んだ先に、きっと出会うだろう、と。

仕事の仕方、ヒトとの付き合い方・・・いろいろなことを、「自分流」にしていこう、と。今までも自分流ではあったのですが、それとは少し違う本当の意味での「ひとり」として「他者との分離」が済んだのだと思います。

「夢」は「私の」「夢」を描こう。

「生活」は「私の」「生活」をしよう。

多くのものからの「自立」を決意できた昨年でした。

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根幹

この数週間、複雑な日常を過ごしていました。

説明しがたいのですが・・・一言で言うと「何が根幹なのか」みたいなことを見つめさせられた日々でした。

ふと・・・「あ、そうか」と感じた事があります。

これからの私にないものは「怒り」だ、と。

今までは「怒りを感じるのはどうゆうことか」とか「怒りを感じないように自分を成長させていくには」とか「そもそもなぜ怒りが起こるのだろうか」とか・・・を見つめてきました。そこから様々なことが見えてきて、手放すものを手放し、今に到っています。

しかし、この数週間で感じたことはまさに「根幹」。

「あ、‘怒り‘そのものが私にはいらないんだ」

ってことです。なぜ怒るのかとか、なぜそれを感じるのかってつまりは「怒り」が「在る」ことが前提です。そもそも「怒り」自体がないのだということを感じたのです。

そしたら・・・・・「なぁんだ。怒らなくっていいのかぁ~」とすごく気が楽になりました。

「在る」ことを前提にするから「なぜ?」が出てくる。

そもそも・・・「あるがまま」と感じているのにわざわざ「怒る」必要がないわけです。それを一生懸命「怒らなくては。だって‘怒る‘があるはずだから!」みたいに探してまでわざわざ怒ろうとしていたことに気がついたのです。

私の中にあるのは「ほよよ?」という「それってどうして?」というクエスチョンであって「怒り」ではないんですね。でも、それがピークに達すると「訳わかんないよ!君たち!それってなんなのさ!?」とショートしてしまうのです。そしてそれを「=怒り」みたいな感覚になっているだけのことなんです。

「怒りを手放したい」と思っていたけれど、そもそも「怒り」が「ない」のに手放すという事はよく分からんことになりました。

「これは?」「これは?」と一生懸命怒る要素を探す。でも、そこには「怒り」なんてなくてただただ「訳がわからない」といったクエスチョンばかりが見えてくるのです。

怒らなくてもいいんだよ~ってことらしいのです。

私の中に「憐れみ」という感覚や「許す」という感覚がないように、「怒る」という感覚もまた「ない」のだということを知ることが出来た数週間でした。面白いなぁ。

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終末の映画

映画が好きなのでよく観るのですが・・・、ハリウッドなどに多いいわゆる「終末映画」。この前エヴァを観にいった時にも予告編が上映されていました。「2012」です。

今日もテレビで宇宙人はいるのか、とか2012年に何が起こるのか、とかやっていました。アセンションもそうだしマヤ暦でも終末については談義されています。

・・・・結局は・・・「人類にとって」なんですよね。今までの地球の歴史を振り返ってみても、何度も生命体の代替は行われてきているわけです。そして今回こそ「人類」なのではないか、というのが概ねの主張どころです。

「地球が静止する日」というキアヌ・リーヴス主演の映画も観ましたが・・・・かなり、がっかりな映画でした。「人間には代わるチャンスが必要なんだ」っていう理由で「滅亡」はいったん中止されるという最後・・・・は?ていうかんじでした。結局人類側のエゴばかりなんですよね。「宇宙にとって人類は・・・」という理由で物語りは始まるのに、結局「人類のために」という最後。宇宙のために、という大義名分はどこへやら・・・・・。がっかりな感じでした。

「終末」論議・・・・。そんなに「罪業意識」を持っていてどうするんですかね。「人類は滅びるかもしれない」と考えるってことは「滅びるべき存在だ」とも言えるわけです。自分たちが生きていることで何か「不都合がある」という考え方です。粛清されるべき存在であるから「終末」が起こりうる、っていう感じでしょうか。でもそれって罪業意識、ですよね。

何かを犠牲にしながら命を生きることになぜそんなにも罪業意識があるのでしょうか。そもそも、以前にも書いたようにこの地球では「他者を食す」ことで「生きる」のが理です。それに罪業意識を持っている。

だったら・・・・「おかげさま」とか「もったいない」とか「慮る」とかをもっと自覚すればいいのに。何かしらのおかげで今自分が生きていられることを自覚しないから罪業意識が積み重なってしまうのではないかなと感じます。「ありがたいなぁ」と感謝することで全てが変わってきます。罪業意識も手放すことが出来るし、終末論に恐れおののく必要もなくなる。

人類が滅びたとして・・・それがなんでしょうか?それが地球の歴史として時の中に過ぎ去っていくだけのこと。それでも地球はここに「在る」。それが地球です。

終末映画を観ると思います。「何を促すためにこれを作成するのだろうか」と。

「感謝すること」を気づかせるために、あのような危機的な状況までをもビジュアルにしないと人類は「感謝すること」も分からないってことなんだろうな、と。

そして、その一方で「なんとかなる」という、いまだに人類の力で地球をどうにかできると思っている傲慢さも感じます。古代の時代のように今ほど人口もなく、モノや様々な便利なものもなく生きていた時代に今の人類は生きていくのは無理なのでしょう。「おかげさま」というココロ(目に見えないモノへの畏怖)もなく、「地球上で一番」という傲慢さばかりを持ち続け・・・・それでは、地球はボロボロになるしかありませんからね。

好きなように生きて、そして地球はその因果により変容していきます。ですが、それさえも「それが地球の歴史」であるのですね。そこに「終末」・・・「人類の終末」があろうと、それは地球にとってはただの時の流れの中でのこと。

「人類が滅びちゃうから地球を大切に!」っていう表現が私は好きではありません。

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エヴァンゲリオン

エヴァを観てきました。

う~~ん。レイ・・・かわいいなぁ。「いいこいいこ」してあげたいです 笑。

テレビシリーズでは最後があいまいになっていたけれど、今回はエヴァとしての背景が確実に詳しく、そして「そう!そうなの!」ってかんじで描かれていてとても面白かったです。

私のイチオシは「初号機」です。これは10年前から変わらないですね。シンジでもなく「初号機」です。

セフィロトの世界観が今回は分かりやすくなって表面化して来ていることが嬉しい。テレビシリーズではセフィロトに関してもあいまいで、「分かる人はわかるでしょ」みたいな感じだったけれど、今回は「使徒」の立ち位置もエヴァの存在の立ち位置も明確になっていて嬉しいのです。

泣いたなぁ。シンジの「願い」から「覚醒」するエヴァ・・・。今、この地球に来ている波と同じですねぇ。サードインパクトがいわゆるスピ界で言われている「アセンション」ですねぇ。

「使徒」=「大天使」ですからね。「りリス」はセフィロトでいう「物質界」の「マルクト」です。別名「剥奪者」、です。それが「人間」ってこと。だからこそ「人類補完計画」なんていう計画があるわけです。補完する必要がない存在(映画ではレイとかカヲルです)とそれに焦がれる人間。でも本当は人間も「補完」する必要なんてないのですがね。ただ、思い出せばいいだけの事。みずからも「レイ」であり「カヲル」であることを。

カヲルの「シンジ君。君だけでも助けるよ。」・・・人間全てに言ってくれている言葉なんですがねぇ。ヒトはそれを信じようとしない、のです。いつまでも「補完されなければ」という枠をはずせない。レイはいきなり「りリス」=物質界に誕生させられて「人間ってなに???」みたいな子。かわいいなぁ。ほんと「いいこいいこ」してあげたい。シンジが一生懸命「愛」を教えようとしているけれど・・・・レイはレイでいて欲しいな。ヒト臭くならなくてもいいのにな。

毎回そうだけれど、エヴァを観るときって自分自身も大きな段階を迎えているとき。そうゆうタイミングで観る事になっているんだよなぁ。これもまた、面白い。

来週、もう一回観に行ってきます 笑。

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目に見えないことへの畏怖

前記事と繋がっているのですが・・・去年、伊勢神宮参拝をした時のことです。

ちょうど内宮の中では「神事」が執り行われていました。私もそれを眺めながら「ふわぁぁ~よきかなぁ~」に包まれていました。すると・・・若いバスガイドさんが大きな声で「はぁ~~い!ここが伊勢神宮の内宮ですよ~!参拝してくださぁ~い!!」と旗振りフリズカズカと鳥居をくぐり、ツアー客を案内してきたのです。

今回のご来光ツアーでもそれと同じ感覚がしました。

確かに神様たちは「それすらもよきかなぁ~」というなんとも大きなエネルギーたちです。・・・でも、ごめんね。私は人間ですから、神様のように大きくはなれません 笑。

お願いですから、もう少しだけ・・・・「畏怖」ということを感じることは出来ませんか?目に見えないモノに「愛おしい」と感じることは出来ませんか?

「畏怖」:「おそれおおい」:「感謝すること」です。

この日本を守ってくれているエネルギーである天照大神に「ありがとう」と感謝することは「宗教」でもないし「信心深い」でもなく・・・・なんと表現したらいいか・・・・。「今ここにいることをありがたいと思うこと」と繋がっていると思うのです。「あなたたちがいてくれたから今の私はここにいる」ということなのだと思うのです。父や母、ご先祖様たちを敬うのと同じことです。全て繋がっていて・・・・・「今」がある。それに「ありがたいなぁ」と感謝することがそれほど難しいことなのでしょうか・・・。

少し前の記事で「願い事」についてを書きました。

ヒトは「こうお願いしたんだからこう叶えてよ」と言います。そして、それがその通りに叶わないと「やっぱり神様なんていないじゃん」と腹を立てます。

ですが・・・・そういった存在たちは「それすらも」「よきかなぁ~」と言ってくれているのです。

どうゆうことなのか見つめて欲しいと感じます。

どれほどの大きな愛で見つめてくれているのか。

クァン・インと繋がった時・・・・「あんたすごいよ!慈悲ってすごい!‘最後の一人まで共にいます‘という観音様の言葉・・・私にはとても難しいことです!」と感じました。なんて、私は小さな人間だろう、と。いまだに、上記のようなことがイマイチ理解できないし、そういったヒトの最後の一人まで共にいる、なんて正直気が遠くなります。数千年たっても学ぶことが出来ていないヒトにそこまでの慈悲を抱くことが私には難しい。

・・・だから、せめて・・・「目に見えないモノへ‘敬う‘というココロを持ってはみませんか」といい続けたいと思っています。

どうしたら伝わるんだろう?と常々思います。

「感謝すること」「慮ること」・・・・「感じること」。

それがなくてもヒトは生きていけます。それがなくてはいけないものでもないです。ただ・・・それを感じることが出来た時、それまでとは違った「歓び」「感動」「嬉しさ」「愛」があふれ出すのです。せっかく生まれてきたのだから、せっかく肉体を持った「個」としてこの地球にいるのだから・・・・それらをもっともっと感じてみて、経験豊かな素晴らしい人生を送ってみてはどうですか?と感じます。「お土産を買うこと」「観光すること」だけではない素晴らしい経験がたくさん出来るのに・・・・。

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これは・・・?

富士山ご来光ツアーでのこと・・・・。

伊勢神宮の参拝に行った時も同じ現象が起きました。

まず一つ目は「体に悪いモノは食せない」。伊勢に行った時は2年連続で同じ現象が起きました。参拝後、自動販売機でちょっと炭酸系のドリンクを買おうとしたら「出てこない」。2年連続、で。結局「水」を買うことに。今回の富士山でもコーヒーが出たので飲もうとしたら一口も飲まずに「こぼした」。結局持参したお茶を飲んだ。

そして、これはどうゆうことなのだろう?と不思議なのですが・・・・。

どう書いて良いのか分からないので、漠然と書きますが。

高次のエネルギーに満ちているところに行くと、低次のコト・モノが不快でたまらなくなるのです。私の場合、「繋がる」という動作は勝手に作動してしまっています。伊勢神宮や富士山などはまさに「んとね~」と言いたくなる様なたおやかな、そして荘厳なエネルギーに満ちています。そこに・・・・「ヒトの想念」も同時に繋がってしまうと「不快」極まりないのです。

ツアーの「案内人」と称してガイドがつくのですが・・・・なんとも言えない・・・「ヒト」そのもので・・・・かなり辛かったです。かつてなら「聞かないといけないのかな」と我慢してガイドを聞いていたことでしょう。しかし・・・限界ヨロシクを経験した私は我慢しませんでした。席を離れ一人富士山を眺めていました。

酷評となってしまいそうなので細かくは書きませんが・・・・一言。

「富士山を愛するならば‘富士山を眺める時間‘を作ってさし上げるのもあなたの出来ることですよ。‘お土産を買わせる事‘‘こうゆう歴史があるから富士山は素晴らしいと定義付けること‘は必要ないのではないですか?」

そこに在るだけで素晴らしい。ヒトが何を言おうとヒトの歴史がどうあろうと、ただただ美しいのに。・・・・目に見えること、ヒトの道程だけが素晴らしいということに終始した結果・・・・ほとんどのヒトは「ガイドのお話を聞き、お土産を買う」ツアーでしかなくなってしまっているのです。少しだけ・・・・さみしくなりました。

不思議です。とても格安でこのご来光ツアーは開催されています。海外旅行で言えば「なんのガイドもなく」開催されるほどの格安さです。しかし・・・・富士山では、その格安だとこの「お買い物ツアー」となってしまうのです。本当なら「バスで行って帰って」だけで「あとは勝手にしてね」みたいになるはずなのに・・・。う~むむむ。残念!

でも、ご来光は美しく、富士山も美しく。伊勢とはまた違った荘厳さがある素敵な場所でした。個人的な探求として「高次のエネルギーが満ちているところで低次のエネルギーを察知しない方法」を検討中。あの不快さはちょっとつらいから。

伊勢では「ふわぁぁ~」と言っている間に、どんどんその不快さから血の気が引き・・・・顔色不良、になっていました。だから参拝する時は一緒に行っている友人でさえも私の側から離れてもらいます。

自分で意識的にしているのではないので・・・・どうしたらいいのかは分かりません。この勝手にいろいろなものに繋がってしまうのも「私」なので探求開始です。せっかくの美しい素敵なエネルギーの体感時間なのに「ヒトと一緒」だととてもツライ。これをどうにかしたいものです。素晴らしい体験とどうしようもない感覚とが同時に襲ってくる。自分がばらばらになりそうな感覚です。でも、一人になり素晴らしい体験だけにするとなんとも言えない心地よさが溢れます。「よきかなぁ~」と。

いつかヒトと素晴らしい体験をシェアできたら素敵です。

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旅行

先日家族旅行をしてきました。梅雨時期にも関わらずまずまずな天気であいかわらず忙しい楽しい旅行でした。

スケジュールは

8:00 出発→8:40待ち合わせ→10:00河口湖到着→お昼ごはん→11:00天上山(かちかち山)展望台とアジサイ散策で下山→河口湖遊覧船にて周遊→姪がスワンボートへ(ふらふらの酔っ払いスワンになっていた 笑)→14:30ハーブフェスティバルへ行くも混雑していて駐車できずホテルへチェックイン(湖南荘 泊)→屋上の足湯につかる→昼寝→17:15温泉入浴→18:30夕食→20:00花火大会が部屋の目の前で開催 観賞→21:00姪っ子たちとゲームコーナーへ(姪はコイン10枚から100枚に増やし・・・大人たちでやっとの思いで消費!)→22:00就寝

3:00起床→3;30「富士山5合目 ご来光ツアー」へ出発→4:35ご来光参拝(4分ほどだけ太陽現る)→ぼんやりと富士を眺める→5:40富士山出発→6:30ホテル着→朝風呂へ(ようやく富士山を下界から眺める)→8:00朝食→9:00ホテルチェックアウトし、ハーブフェスティバルへ→「与 勇輝」の作品を鑑賞→お土産タイム→11:30「石ころ館」にて姪がネックレスを創作体験(じじ居眠りタイム:「ねぇねの結婚式でつけるの!」とのこと・・・つけるチャンスがなかったらごめんね 笑)→河口湖出発→御殿場で昼食→帰宅

どこかの旅行ツアーばりのスケジュールで・・・楽しくも多忙な2日間でした。

富士山はあいにくもやっていて下界からはほとんど見ることができませんでしたが、ご来光ツアーにて5合目から頂上を眺めることが出来ました。

土曜日曜に観光地メッカに行くことなどほとんどないので御殿場でのヒトの多さにはちょっとびっくりしました。不況というけれど・・・結構皆さん楽しんでいるようです。

お子ちゃまと過ごすと若返ります。なんのてらいもなく「たのしい!」「うれしい!」「なんだか分からないけどえへへ~」みたいなお子ちゃまエネルギーはこちらもうふふ、となります。どこからそんなに元気が出来るのだろう?というぐらい元気で大人はついていくのが大変!笑 です。いつまでも純粋でいてください。

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