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2009年6月

アチューメントについて

ここで、少し「アチューメント」についてを書こうと思います。

「チャネルを合わせる」「繋げる」「呼び込む」・・・いろいろな解釈が出来るこのアチューメント。それは、一体どうゆうことなのかを少し書いてみようと思います。

例えば、とても好きな芸能人がいたとして・・・その人のようになりたい!と、一生懸命洋服のセンスを真似てみたり、お化粧を学んでみたり、ダイエットをしてみたり・・・そうして、いつのまにかその好きな人と同じ様に輝ける自分を手に入れたりします。

それと似ています。

「クァン・イン」(観音)、「ミカエル」「ラファエル」「ウリエル」「ガブリエル」などなどとの「縁」を繋いでくれるのが「アチューメント」と言われています。

「クァン・イン」のエネルギーである「慈悲・浄化・慈しみ」を自分の人生に取り入れるのです。そうすることで、自然と慈悲ということがどんなことなのか、浄化とはどんなことなのか理解します。そして、自らも「慈悲」となり、「浄化」を促すことができるようになるのです。

詳しく書いてしまえば、アチューメントをしなくても繋がることはできます。しかし、ファシリテーター(すでに繋がっているヒト、導管)にそれを誘導してもらうことですんなりといくのです。アチューメントをしなくても繋がりたい時は「あたかも自分がクァン・インになったかのように意識し行動してみる」のです。そうすると、「慈悲」に辿り着くまでに何を手放せばいいかが見えてきますし、そして手放した先に「慈悲」に辿り着く自らを自覚できます。それを自覚できた時すでにアチューメントは終了していると同じなのです。

私がエンジェルリンクを受けたのは、漠然とした「このエネルギーが私の人生にあったら素敵だな」ということと、「私が笑っていることで周りにもそのおすそ分けが出来るんだよな」ということです。「無償の愛」というローズオーラ、「ノンジャッジメント」というミカエル、「癒し」であるラファエル、「エンジェリックビューティ」というウリエル、「エンジェリックジョイ」というガブリエル・・・・それらが、様々な事を私に気づかせ、それを体現するようにサポートしてくれる。そして私がそれを体現することで、周りに人々にもそれらをおすそ分けできるのです。

イライラしている人の側に、ポンっと座るだけで私の周りに充満しているそれらのエネルギーで「なんだか、イライラしているのが和らいできたな・・・」となってくれる。こんな素敵なことはありません。何かに怒っているヒトの側にいるだけで、「ほよよ~そんなこと気にすることないんだよ」というエネルギーで満たしてあげることが出来る。そんな素敵なことはありません。

アチューメントやヒーリングは言い方は悪いですが「思い込み」からどんどん拡がってもいきます。ですが、「思い込み」と違うところは「与えられるものは全てギフト」というところです。もし、「思い込み」から入ったとしても、いずれ本当の意味で穏かなる自分に気づかされます。「自分にとって都合のいいカタチ」ではなく、です。自分にとって都合のいいカタチでそのエネルギーを「理解した」とか「繋がった」とすると、「自分も幸せ。他者も幸せ」に行き着くことは少し難しいでしょう。ですが、「ギフト」である本質と繋がるとそれはすんなりと行われます。

ためしに、ひとつアチューメントを受けてみると実感すると思います。

それをしていただいたときに、劇的に何かが変わるなんてことはありません。ですが、振り返ってみるとそれを受けた時から自分自身がそのエネルギーの元、変容していったのだということがわかると思います。「理屈じゃなくて」みたいな自然の流れの中で変容が起きているのです。

「もっとヒトに優しくしたいのにできない」という場合、それらのエネルギーをアチューメントしてもらうことで「優しくできない根本は何か」とか「どうしたら優しい目で受け入れられるのか」とかが気づきとしてバシバシ日常の中で起こってきます。そして、それらを学び、それらを実践していくことで「優しく出来る自分」を培っていくことができるのです。

自分の人生にどんなエネルギーを取り入れたいか、という視点でアチューメントを捉えてみると分かりやすいかもしれませんね。

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エンジェルリンク②

エンジェルリンク(ラファエル・ウリエル)をしていただいて1週間・・・・。いろんなことが見えてきました。

まず、ウリエル。・・・たぶん私の人生に今まで上手く回っていなかった部分なのだと思うのですが・・・「エンジェリックビューティ」というエネルギーです。なんだか上手く説明できませんが「楽しむ」ってことでしょうか。私にとって、なのですが「楽しむ」=「エンジェッリクビューティ」であるようです。楽しみ、笑い、喜び=美しきもの、というエネルギーです。おかげさまで、「楽しい」です。「歓び」ではなく「喜び」です。ぬふふ・・・と思わず笑ってしまうような感じです。

そしてラファエル。これは本当に「先の道を照らす」「癒し」である感じです。今まで見えていなかった側面をたくさん気づかせてくれます。そして「気づく先にある癒し」を体感しています。「そこだったのか~」というような、ほんの少し視点をずらすだけで訪れる癒しは本当に心を穏かにさせてくれます。

例えば・・・最近、いろいろなことが「頭打ち」状態で「どこに向かって、何をすればいいのか」を見定めることが出来なかったのですが、「たぶんこうゆう方向だろう」と感じていたことが実は「すでに行っていること」であると気づかされました。エネルギーを通すことや導管となること、リーディングやヒーリング・・・これらをどうしていいか分からずにいました。別にサロンを開きたいわけでもないし、そもそも「どうぞご自由に」と感じているのでわざわざ自分でそういった場所を設けるつもりもなかったのです。ですが、ではどうしたら私が持ちえているものを出せばいいのだろう?と頭打ち状態だったのです。

ですが・・・「すでに行っている」ということに気がついたのです。例えば患者様との触れ合い、友人や仲間とのふれあいの中で私はすでにヒーリングを行っていて、リーディングも些細な会話の中からも行っている。(チャネリングも含む)

リーディングに関しては「私はサイコメトラーか?」と笑い話にしたぐらい看護記録やカルテなどをリーディングしていたのです。「そこで一体何が起こり、なにが余白としてあるか、そしてなにが必要か、アクションとして何を行うか」などなど・・・。会話の中でそのスピリットのチャネリングをし、必要なヒーリングを行ってもいたのです。看取る、ということもそのひとつでした。

「すでに行っている」ことを「これからしなければ」という視点で見れば「頭打ち」となるのもうなずけるのです。

上記のはひとつの事柄ですが、いろんなことがそういったカタチで気づかされています。そして、それらを見ることで、「ではどうするか」も見えてきつつあります。

ミカエルとは違ったなんというか・・・「面白い」エネルギーです。

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エンジェルリンク②

今日はエンジェルリンク第2弾として「ラファエル」と「ウリエル」を受けてきました。

いつもそうなのですが、このリンクを受けることを促されるように物事が流れていたので、ようやく一段落、というような感じです。予約を入れるとさらにはっきりとそこへの道筋が通るので「ほぉ・・・これがラファエルかぁ」とか「これがウリエルかぁ」と理解できます。

前記事などと繋がっているのですが、「私を主張する」ことが私にとっての「癒し」であることがメインに気がつかされたことです。つい先日は患者様の申し送りの時に「もう、限界ヨロシクです」と患者様の様子を伝えたのですが、つまりはそれすらも私の内なる声が「もう限界ヨロシクです!」と言っていたのだということです。「もう、いいかげん主張しなさい。あなたは限界ヨロシク、ですよ」ということを教えてもらいました。

そして、それに気がつき「ではどうするか」と変容していくのがラファエルの癒しであるのです。ウリエルは「審美眼」、「なにが本当の美しさなのか」ということを分からせてくれるエネルギーです。上記の件で言えば、自分が限界ヨロシクな状態なのに、さらに他者のために身を削ることは「美しくない」ということらしいのです。「あなたも幸せ、他者も幸せ」が本当の美しさなのでしょう。

リンクのアチューメントをしていただいている時に私やファシリテーターの方が感じたのは、ラファエルは「なじんでいた」という事と、ウリエルは「きれいな感じ」というイメージでした。面白かったのはウリエルは最初、大工道具や日曜大工道具を入れる「赤いブリキ缶」のハコを抱えていました。私は「さすがにもうちょっと美しいのにしてくれると嬉しいです」と伝えるときれいなピンク色と赤い色のハートのハコを手渡してくれました。さらに四角いハコを受け渡されました。一体、これからの人生でそのハコから何が出てきてくれるのかと、とても楽しみです。(象徴としてラファエルは「たいまつ」、ウリエルは「ハートの小箱」を手渡しにやってきてくれるといわれています。ヒトによって形やエネルギーは違うそうですが・・・)

セラフローズオーラとミカエル、そして今回ラファエルとウリエルとの縁を繋いでいただきました。次回はガブリエルです。ミカエルをアチューメントしていただいてから様々なことが整理されて、そしてラファエルに私にとっての癒しとは何かを教えてもらい、ウリエルに本当の美しさとは何かを教えてもらう。そしてガブリエルは「歓び」とはどうゆうことなのかを教えてくれるのです。ローズオーラという「無償の愛」を根底にして。

ガブリエルは象徴として「受胎告知」ということも言われていますから、ファシリテーターさんに「たぶんこれからミカエル、ラファエル、ウリエルでいろんなことが明確になり、そしてガブリエルのエネルギーで『あなたの歓びとは』という『告知』を受けるのでしょうね」と教えていただきました。なるほどねぇ。その告知を受けるためにミカエルやラファエル、ウリエルが私にいろんなことを気づかせてくれるのです。

いつごろガブリエルに会えるのかとても楽しみです。

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そこか・・・。

ここ1ヶ月ほど夜勤ばかりの生活でした。

今までになくかなりのハードスケジュールでした。そのことから学んだこと。

今までいくらハードでも「仕事だから」とこなしていました。ですが、最近どうもそうではないらしいという事が分かり始めました。以前の記事でも書いたようにカルチャーショックは結構あるのですが、この仕事に関することでもあったようなのです。

よくよく聞いてみると周りの人たちは「これはキツイ」とか「こうしてほしい」という希望を勤務希望を出す際に申し出ていたそうなのです。常々それは分かっていましたが、「仕事だしそんなわがままはどうなのだろう」と思っていたので私は、ほとんど希望は出さずにこの6年を過ごしていました。

・・・ところが、この4月期に入り人事異動や様々な流れの中でどんどんハードになっていくのです。たとえば、他のヒトが「これはイヤ」と言ったことが何も言わないヒトに回ってきていたりすることが顕著なのです。もちろん人員の都合もあるのでいたしかたないのですが、「その業務を行えるヒト」も人事異動などで減少したため、残った人々でそれをこなさなければなりません。しかし、その残った人々の中で「私は嫌」と宣言されてしまえば、何も言わないヒトにその仕事が回ってくるのは当然です。ヒトが少なくなっても業務は同じ容量あるわけですから、回ってくる量もぐっと増えるし濃くなるわけです。

それで学んだこと。「主張しよう」です。

本当に些細なことなのですが、「勤務希望を出す」ということでさえもカルチャーショックが伴うのです。私までも「それは嫌です」とか言ってしまえばではどうやってまわしていくのだろう?ということから「やるしかないじゃん」と今までこなしていたのですが・・・「言ったもの勝ち」みたいなことはさすがに疑問が残るのです。しかも、それらを引き受けてこなしていることで私が出来るはずの事に少なからずキャパオーバーが出てきてしまうのは事実。そして「私は嫌」と宣言したヒトは安穏とマイペースなのです。

かなり「いいのかなぁ・・・」と感じながらも、今回の勤務希望では「ちょっとこれはキツイです」ということを添えて出してみました。私的にはドキドキものです。私が嫌といったばかりに他のヒトがキツイことになるのもどうかと思うからです。

そうしたら・・・「ごめんね。来月からは少し楽になると思うから・・・」と言っていただいたのです。・・・・ほぉ・・・そうか、言ってもいいのか、ということを学べたのです。

自分では別に「私がきつい仕事をすればいい」という意識で、希望を言ったりできないわけではないとしていたのですが、ヒトがそれぞれ自分はどうしたいか、を主張することによって様々な譲歩や調整は図られるものなのだと分かりました。

「自分をもっと大切にしましょう」とも繋がっているのだろうな、と感じる学びでした。

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長い間の疑問

なぜ「気づくモノ」と「気づかぬモノ」がいるのでしょうか。

今大きな「流れ」が起こっているのは「全てのモノ」に、なのですが・・・・「気づかぬモノ」「気づくモノ」が在ります。

そしてさらに「気づくモノ」にも深淵に「気づくモノ」と「気づかぬモノ」が在ります。

もちろん気づかぬモノでも変容は始まっていて進んでいます。

しかしどこを「到達点」にしているのでしょうか。

自覚しうる「意識」の領域で行動を起こすことを促されている人々も多くなってきています。けれどあまりに「幼い」領域であることもしばしば・・・・。

意識していようがしていまいが、進んでいてたぶん同じ様に変容していっていることでしょう。

では「気づくモノ」は一体「何を」すればいいのでしょうか。

自覚しうる意識の領域で「自覚」すると変容は「明らか」に進んでいきます。それを促すことでしょうか。

ここで疑問が浮かぶのです。気づかないままで自覚しないままでも変容は行われています。それを「自覚する」ことへの意義がよく分からないのです。スピリチュアルの大きな流れの中で「自覚しましょう」という一定方向へ促されている風潮もありますが、それは「何を」目的としているのでしょうか。「自覚したほうが楽だよ」ということなのは自分自身の経緯を見ても分かります。

それぞれのスピリットの自由意志の元「気づくモノ」「気づかぬモノ」が在ります。

多くのヒーラーや様々なメディスンたちは例えば「サロン」を開き、「気づきつつあるモノ」「気づくモノ」に対する門戸を開いています。では、「気づかぬモノ」への門戸は誰が開くのでしょうか。もちろん、そのヒーラーたちやメディスンたちと関わっていった人々が散らばり拡がっては行くのでしょう。

では「幼さ」は?

全ての事柄、事象、出来事は「そのスピリットに見合った」領域で起こります。

時々出会うヒーラーとはまた別の役割を担ったヒトは必ず同じ様な「色」をしています。顔色というか・・・・。しかし、そういったヒトは多くはすでに「センセイ」と呼ばれる地位を得ていたりします。「スピリット」と「自我」で繋がりがどういったコードになっているかは分かりませんが・・・私は「不健康」と感じるのです。上手く回っていないな、と。ですがその人々に「教えを請う」ているのです。

本当の意味で「輝いているヒト」はいます。そういった人々と出会えるように多くのヒトが選択して行って欲しいと願わずにはいられません。

極端に書いてしまえば「地球上での概念」を手放せずに「ヒト」であり続けることに必死で「執着」しているヒトは顔色が悪いです・・・・・。

そうゆうのはどうしたらいいのでしょうね。

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ふむ。

ちょこっと「私の世界」。

私は無宗教ですが、無神論ではないと自分では思っています。

かつて地球が誕生した時・・・・元素や原子・分子だけの世界・・・そういった「生命」がある前の段階。それが確実にあったわけです。そして・・・どこからかなんて分からないけれど(火の中なのか、水の中なのかとか)、あるとき「生命」が生まれました。私はその始めの「生まれる」というエネルギー自体が「神」であると感じています。科学的に実証されない「無」から「生命」へのエネルギーです。

ヘドロの中だっていい、マグマの中だっていい。その中に「生命」が生まれた。水がいくら分解しても「命」は生まれない。それが「科学」。しかし、遠い遠い遥か昔に「それ」が生まれた瞬間があったわけです。そして進化して進化して今の様々な生物になっている。

宇宙からやってきた・・・・それならばそれでいい。けれど、じゃあその宇宙での「生命」の始まりは?その「はじまり」にかかるエネルギーを私は神だと思っているのです。

「無」から「有」へ。そのエネルギーは計り知れない。

「創造する」こと・・・・「想像する」こと・・・・神と同じエネルギーを宿す瞬間でもあると思うのです。(もちろん神と同一ではないですが)

自分の人生を生きるとき、「ヒトの真似」「ヒトと同じ」「言われたとおりに」していたのでは神のエネルギーと離れてしまいますよね。創造しましょうよ。想像しましょうよ。けして「同じ」モノにはなれないこの地球で、もっと楽しい創造をしましょうね。

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映画「天使と悪魔」

今日は久々に映画に行ってきました。トム・ハンクス主演の「ダヴィンチ・コード」の第2弾「天使と悪魔」です。

前作とは少し変わって「明らかな悪」という存在は描かれておらず、反対に「天使の中の悪魔」というようなものでした。

いろいろなことを感じた映画でした。

ヒトにとって「自らの未熟さを認める」という行為が最も難しい行為なのではないかと感じました。もちろん私も含めてです。「未熟さ」というとまるで「完成型」があるかのようですが、実はそれはないのではないかな、と。では、なぜ「未熟」と表現するか・・・・。「完璧ではないことを知る」ということかなと思います。

完璧という完成型がないのに「完璧ではないことを知る」・・・・なのです。でも、それが「生きる」ということなのかもしれません。だからこそ「自分の完璧ではない部分を認める」ことがヒトにとって全ての源になるのではないかと。それを認めないままでいるからこそ「おそれ」があり、「傲慢」がある。・・・・つまり「そうではない」というエネルギー、ということ。

映画の中で「科学で神の力とされてしまったら、私たちの神はどうなる?!」というようなことを言っていました。それが「悪魔」と表現されたことなのですが・・・・。まさに、その通りだと感じます。悪魔は「おそれ」「傲慢」「執着」に象徴される「言葉」です。「私たちの神はどうなる?」というまさにこの一言なのですね。

・・・ふと、考えました。世界中にいる多くの影響力を持つ様々なポジションにいる人々がこの「悪魔」とどれだけ戦っているのでしょうか。たぶん、個人的にはそれを成し遂げたいと思ってもそれを阻む勢力もあるはず。それを破壊ではなく調和で解決するにはどれだけの葛藤があるのでしょうか。

例えば日本の政治。麻生さんが素晴らしい、という論議ではなく・・・・本当は麻生さんは個人的にはもっと情熱的に改革をしたかったり調和を求めているのだとしたら?それを阻んでいるのは一体誰でしょうね。誰が正義か悪か、なんていうことはもうそろそろ日本の政治も手放して欲しいところ。なぜ「共に調和する」ことを前提にしないのでしょうか。それって・・・・映画では「悪魔」とされているのにね。

長いスパンで叶えられるのに「今困るから」という理由でそれを阻む。税金も年金もそう感じます。政権が変わってもたぶん・・・・しばらくは「同じ」。今度は自民党が民主党を「敵」とするだけ。「敵」とすることもいわゆる「悪魔」の概念です。本来は「敵」など存在しないのですから。

ひとつのフィクションの映画ではありますが、いろいろなことを気づかされます。

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願い事②

ある時、私はもっと交流を深めたいと思っているヒトがいました。でも、そのヒトはその頃ピリピリといつも忙しく、ストレスが溜まってしまっている状態でした。話をしようにもその余裕がないような状態だったのです。

そこで私は「どうか穏かであってください」と思いました。そして、数日たち・・・そのストレスのピークが去り穏かそうに過ごしていました。・・・・ほよ?ではどうしてなかなか話が出来ないんだろう?とだんだん私は感じました。「!・・・交流を深めたいとはお願いしていなかった!」と気がついたのです。

思わず笑いました。ヒトであれば「これこれこうお願いしたんだから、つまりはこうゆうことなのね」と「慮る」部分が少なからずあります。しかし、エンジェルやマスターたちは違います。メチャメチャ「ダイレクト」なのです。「はい!オーダーはいりました!‘穏かに‘にサポート入ります!」みたいな(笑)。私との交流はオーダーに入っていないのです。

そこで私は「交流が深まりますように」とお願いをしました。すると、「関わる時間」がどんどん増えていきました。そして私は交流していくことを行動に移すことが出来たのです。

もちろん「これこれこうゆうふうに」と交流の仕方は限定していませんから、様々なカタチでその機会は訪れます。時には「これかよ!」と思うような形だったりもします。しかし、そのときを「どう過ごすか」は私の自由ですから楽しみます。後々見つめると、「あぁ、あれがあったから交流が深まったんだろうな」なんて思うのです。

では、違う側面からで・・・・。この「他者が穏かになりますように」は勝手に発動していいのかどうか、というところです。これはよく言われているのは「相手のガイドさんに聞きましょう」ということと当てはまります。

私はあまり相手のガイドさんには問いません。なぜなら「スピリットにとって最善のカタチ」で叶うからです。ですから、たとえ私がその他者の穏かさを願っても「その状態(学び)」がそのヒトにとって必要ならばそれが済むまで継続されるでしょう。私が発動した「穏やかでありますように」にかかるサポートは「穏やかであってもいいんだよ」ということを相手に知らせるサインとなって降り注ぎます。それに気づき、いろいろなことが収束に向かい、そして穏かさを相手は手に入れる。もし、気がつかなければまだまだ穏かではない日々が続くのです。

私の願いと相手のスピリットにとっての最善がマッチした時に「穏かな」日々が訪れるのです。

ですから、私は「執着」=「エゴ」にこだわります。例えば、私が私のエゴとして「私と話をする時間がないから穏かであってください」とお願いをしたら「何で、君のために?」ということです。ようは「自分のため」にお願いをしても他者の幸せを願っているとは言えない訳です。執着は「自分」の中でのことです。相手に執着していての願い事は「自分のため」です。

私はよく感じます。「早く気がつけばいいのになぁ」と。穏かなる日々がすぐそこに用意されていて、いっぱいサポートが入っているのに何かにこだわりそのサインに気づかずにいつまでもグルグルとしている。ひとごとながら「いい加減疲れないの?」と感じます。それさえ抜け出せば「その状態(学び)」は一段落するのになぁ・・・と。

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