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2009年5月

願い事

前の記事で少し書いたのですが、「願い事が叶う」ということについて少し書こうと思います。

ある友人の話です。

「子供がまだ19歳なのに彼と仲が良すぎる。せっかく大学まで入ったのに子供が出来たらどうしよう?そういったお願いも聞いてもらえるの?」

というようなことを聞かれました。

この場合、「子供の幸せを願う母の願い」は聞き遂げられます。しかし「子供が出来たらどうしよう」という部分は別です。説明すると「その子にとっての幸せ」は叶う、のです。それが母の願いですよね。「子供が出来たらどうしよう」は母としての心配、です。しかし、その子にとって「今お子さんが出来ること」が幸せな道ならばその母としての心配な部分は叶わないことになります。

「まだ19歳なのに・・・」ろいうのも母心。「子供が出来たらどうしよう」というのも母心。しかし、根底にあるのはどんな理由をつけても「この子が幸せでありますように」という願いです。それはきちんと叶うのです。ただ、そのカタチは母心とは一致しないこともあるのです。

こう考えると「願い事が叶わない」なんてことはないのです。

もっと細かく言うと、「ひとつのスピリットとして学ぶこと、経験すること、感動すること」が大きなスピリットの目的としてあるのです。お子さんを生むことでそれらを体験することもあれば、社会経験を積んでもしかしたら何かのスペシャリストになってそれを経験するのかもしれない。それは「個」としてひとつひとつのスピリットが選んでいけるもの。たとえ「母」であろうとそこは別なのです。

願い事を願う時、「おおまかに」「本当に叶って欲しい部分」だけを願うことで、その答えは「はっきり」としてきます。

「お金が欲しい」という願い事だとすれば「どうか、私が経済的不安がなく暮らせますように」とするだけでいいのです。そこに「宝くじが当たりますように」とか「これこれこうゆう風に」と限定したカタチをつける必要はないのです。もしかしたら「良い仕事」が見つかるかもしれないし、節約方法が見つかるのかもしれない。はじめは「苦労」に感じても後々、その経済的不安から解放されるプロジェクトに関わるのかもしれない。いろんな「カタチ」でサポートしてくれるのです。「お金が欲しい」と言っておきながら「働くのがイヤ」ではお金が入ってくることも難しいでしょう。お金が欲しい、と言っておきながら無駄遣いばかりしているのでは経済的安定は不確かになるでしょう。そういった状態にあるのならば、まずは「働こう」とか「これは無駄かな」とかということに気づけるようにサポートしてくれるのです。

ですから、「長いスパンで」叶えられているということ、そしてその願いをかけたときからそこへの道は始まっているのだという事を知ると、楽しくなります。「そうか・・・ここをどうにかすればいいんだな」というような「気づき」として「直感」としてサポートのサインを送ってくれます。そして、それに従ってみる。そうすると・・・いつの間にか願い事は叶っているのです。

なんの繋がりもないような出来事でさえも、その願い事が叶えられるためのステップであるのです。

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ノンジャッジメント

以前、言われたことがあります。

「ノンジャッジはとても大切だけれど、全てをあるがままでいい、としていては変容にアクションをかけることは難しいのではないの?」

と。これまた1年がかりで見つめました。確かにそうなのです。私の中にあるノンジャッジは「あるがままを受け入れる」「よきかなぁ」なんですが、それでは解決できないヒトが多いのです。

私自身のことであれば「あるがまま」でノンジャッジでも変容は進みます。「今はこの状態である」ことをそのまま受け入れ「ではどうするか」という方法です。「今この状態」を「良い」とも「悪い」ともしません。「今」がこの状態であることを受け入れて初めて「ではどうしようか」という方向性が見えてきます。「今」が「悪い」とか「良い」とかとジャッジをつければ「良い状態」であるならそれを維持することに執着が生まれ、そして悪くならないかと恐れを抱くこともあるのです。「悪い状態」をピックアップしすぎれば「後悔」やネガティブな「過去」を引きづります。

あるがままを見つめ、それを受け入れる。それが私にとってのノンジャッジ。しかし、提示されたのは「方向性を示唆するにはやはり‘ジャッジ‘は必要ですよ」ということでした。

リーディングをさせていただいたりしても、それは感じます。細かいことに「それって良いこと?悪いこと?」とか「じゃあそれはいけないことなんだね」と問いかけられます。・・・・なんの枠もなくリーディング結果を聞いていられる人は少ないのです。「良い」か「悪い」に終始し、「それが今のあなたですよ」という「事実」さえもジャッジしようとするのです。

オーラリーディングや様々なヒーリングでも時々感じます。「あなたはこうですよ」と言っていただけるのは嬉しいのですが、その方の中に「それは悪い状態だ」という概念があるとすぐにそれを感じます。オーラも「今はその状態」というレントゲン写真のようなものです。それだけを見て「だからあなたはここが悪い」とジャッジをつけすぎる必要はないものです。けれど、ヒーラーの方々の中にもそれを依然として持って、そしてそれを元に方向性を示唆するのです。

確かにジャッジは必要なのでしょう。しかし、それは「あるがまま」を受け止めた先にあるモノ。初めからジャッジしまくって方向性を示唆されるのはなんだかなぁ、と感じるのです。

「同じヒトじゃん」とか「それがあなたです」とか・・・いろいろ私は書きます。それは「ノンジャッジ」の元にあります。しかし、何かを提示したり示唆したりする時は方向性をジャッジします。

「方向性」とは、「分離を元にした変容」なのか「調和を元にした変容なのか」ということです。物事を解決するときに「何を」最終形に描いているのか、ということです。

例えば、苦手なヒトがいたとします。「分離を元にした変容」だと「あのヒトがいなくても私は生きていける」。「調和を元にした変容」だと「あのヒトと上手くやっていくにはどうしたらいいんだろう」となります。いろいろな悩みや迷いをどう解決するかという時に、この変容のステップを見誤るヒトが多いのです。以前の記事でピックアップした「パワー:フォース」もまた、この原理でもあります。

世の中には本当に様々なジャッジがあります。「男」「女」から始まり「年上」「年下」、「上司」「部下」「親」「兄弟」「友人」「知人」「仲間」・・・・「地位」「権力」「立場」「職業」・・・・いろいろです。しかし、目の前にいるヒトは「ヒト」です。上司だからと年上だからと何をしても傷つかないわけではありません。親だからと上司だからと偉ぶる必要もないことです。

「良い」「悪い」はルールがあるからこそ出てくる概念です。しかし、「愛」そのものにはルールなんてありません。愛には「良い」も「悪い」もないのです。「あのヒトを好きになってしまった、どうしよう」というヒトがいるけれど、ヒトを好きになることって素晴らしいことでしょ。どうしよう、といっているのはまた別のことなんですよね。愛することは「良い」「悪い」はないのです。

どれだけジャッジをしているのか、ジャッジした目でモノゴトやヒトを見ているのか見つめてみると自分の変容の最終形が「分離」なのか「調和」なのか見えてくると思いますよ。

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言葉②

「執着」=「エゴ」とするなら・・・・。みんなすごい、だなぁ。なんでそれほどまでに執着するのでしょうか。

「愛されたい」のであれば「愛せば」いいわけで・・・。愛することによってどんな小さなことからでも「愛されているのだ」と感じることが出来る。だから「愛して!」とか「愛されているのかしら」とかに執着する必要はなく、ただただ愛せばいいだけのこと。愛されるために何かをするのではなく、愛しているからそれが出来るわけで・・・・。

ヒトを信用することでも、信用されたいなら信用することで、信用されるためにすることは信用すること、なんですよね。なのに「相手のエゴを満足させなければ信用されない」という世界がある。・・・・・「何をしていても」「あなたのことは信じています」なのになぁ。

つまり「自分の願いどおりでなければ受け入れられない」という執着があるってことです。「思い通りにしたい」という執着、「思い通りでなければならない」という執着、です。それを根強く持っていれば、相手の「自由」は認めない「傲慢」と言えます。

執着が「悪い」と言いません。というより、それが「情熱」や「生きる歓び」までに昇華できるならそれは「必要である」という「欲求」になるわけです。執着やエゴとは言わないわけです。

私が感じる執着というモノは「おそれ」が強いカテゴリーだと感じています。「愛されているのだ」ということを気づけなければ「愛されること」に執着します。「満たされているのだ」と気づけないでいれば「満たされたい」と執着します。

その「おそれ」を手放すこと。それが執着を手放す道なのだと思うのです。

エゴとして相対するか必要である、として相対するか・・・・。それだけで、「では私はどうするか」という選択肢がずいぶん変わってきます。何を基盤に何を願い、何を手に入れたいのか。そしてそのために自分は何をするのか。・・・・執着を基盤にするという事は「恐れ」を基盤にするということでもあるのです。「そうなったらいやだから」という「おそれ」です。ネガティブなアファメーションですよね。そういったアファメーションは「こうなったら」という枠もあるってことです。しかし「最善のカタチ」で叶えられるわけですから、その通りに行くとは限りません。叶っているのに叶っていない、と感じるのはそのためです。「結果」にも執着しない。「あとは天におまかせ~~」という感じです。

言葉を変換すると様々なことが理解に繋がります。自分にとっての言葉を見つめてみると案外違う変換をしていることもあると思います。探してみると面白いですよ。自分の根本にある概念が覆ることもあるし、それによって新たな選択肢が出てくることもある。今まで解決できなかった事ができたり、理解できなかった事ができたり。辞書に載っている「言葉」の意味が必ずしも自分の言葉と同じとは限らない。「そう思いなさい」と言われているだけであって、使い方が違うこともある。それをすり合わせてみると、いろんな幅が出来てきます。お試しあれ。

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言葉①

今日は「赤い惑星の蛇」という日です。エネルギーとしての本質は「本能」。

にゃんたること!と合点がいったことがあります。

私が「エゴ」だと思っていたのは「欲求」だということです。しかし・・・「エゴ」=「執着」だったってことがぴたっとはまりました。

「自分自分」は果たして「欲求」なのか「執着」なのか。

私はなんだか執着自体は薄いみたいなので、勘違いしていたのです。私にとっての「欲求」はいわゆる第三チャクラに関係する「自己主権」に関わるもの、で多くのヒトが抱く「欲求」はいわゆる「執着」というエゴが濃い意味合いなのだと。

そんなことは知らないものだから・・・・「エゴを手放しましょう」という課題に乗っ取り・・・私はこの数年「自分の中のエゴを手放す」ということを見つめてきました。しかし・・・手放せば手放すほど、なにやら???も増えていきました。最近では「私ってうんこ製造機か?」と思えるほどシンプルな生活です。・・・・つまり、私は「エゴ」が「執着」であることがよく分からないばっかりに「自分の中の欲求」の部分を手放そうとしていたのです。

1年以上も前ですが、「生きる欲求」さえもなくしかけた事もありました。自殺とかそうゆうことではなく「体のエネルギーが‘薄く‘なっている」ことに気がついたのです。それで・・・「あぁ、いかんいかん」とそれは戻しました。しばらくの間、「私は一体何が欲しい?何がしたい?」と通販雑誌を見たり、美味しい食べ物を「食べたい」という欲求を自分の中から湧き上がらせるのに集中し「生きる欲求」を維持することにしていました。

「エゴ」=「執着」であるなら、とても納得が行くのです。「欲求」=「必要である」ということ。

これまた私的にはカルチャーショックです・・・。

多くのヒトは「自分自分」でいます。それって・・・「執着」ということなのかな、ということです。「自分の思い通りにしたい」とか「こうでなくては」とか「こうなればいいのに」とか。・・・・これを「欲」だと私は思っていたのでつまりは「エゴ」だと変換していました。しかし・・・それは「執着」というカテゴリーに入るのだとしたら・・・・。全く意味合いが変わってきてしまいます。

個人的な課題としていつも「自己主権」ということがよく分からなかったのです。第3チャクラ。「あなたは何がしたいの?」と問われて「えぇ・・・と?ご飯も食べれているし、みんな素敵なヒトだし、地球は美しいし・・・・ありがたいしかないんだけど・・・?」=「これ以上望むのは‘エゴ‘なのではないの?」と感じていたのです。

でも、そうゆうことではないらしいのです。

私にとっての「言葉」として「欲」=「欲求」は私にとっては「執着」ではなく「必要なこと」だったわけですから・・・・それは手放すのは何かが違うってことなんだよなぁ・・・と。

なんだか、面白くなってきました。散々「欲」は「エゴ」であるとしてきたので、「必要なこと」に気づくことは難しかったのだと感じます。さて・・・私には何が必要なんだろう?それがいわゆる第3チャクラの学び「自己主権」なわけです。

エンジェルやマスターたちに散々「あなたの望みは何?」と言われ続けていました。「そのお手伝いをさせてくださいよ」と嬉しい言葉を散々かけてくれていました。しかし、私は「いやいや、それは私のエゴですから・・・」とお願いすることがなかったのです。だから、時々「自分ひとりでやろうとしないでもっと私たちを頼ってください」とも言われていました。

・・・本当に、いろんなことが見えてきます。この「言葉」の感覚の違いはどうしたらいいのかなぁ・・・。

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ハートチャクラ

「こころを開く」「ハートで感じるままに」「愛」・・・ハートチャクラに関係することです。

「ハートで感じるままに」とはどうゆうことかというと、きれいなものをみてきれいだな、と感じるという事です。

「きれいなもの」はヒトそれぞれ違います。同じ景色を見てもきれいだと感じる部分は違ったりします。人によっては空がきれい、山がきれい、空気がきれい・・・いろんなことで「きれい」と感じます。

ハートチャクラが上手くバランスが取れていないと・・・・例えば「昔彼に振られたときにいい天気だった」ということから、いい天気の時は気分が良くなかったりします。これはハートチャクラが閉じてしまってる状態です。何も天気がいい日をきれいと感じましょうと言っているのではなく、「理由をつけて」そのままを感じることが出来ない状態を指します。

トラウマのようなことを抱えていると、本当は美しいと感じているのにそれを「美しくないものだ」と「思って」しまいます。・・・ここがポイントです。「思う」なのです。「感じる」ではなく。

ハートチャクラは「感じるままに感じましょう」というところ。

ヒトに親切にされて「余計なことをして」と「思う」。

「ありがとう」と言われて「なんでそんな事言うの?」と「思う」。

ヒトに親切にされても「何か理由をつけて」ありがとうという行為に感じることが出来ない。本当に相手があなたのためにしてくれたことをありがとう、と感じないように自分の中で「思って」いるのです。

不思議なものですが、ハートチャクラが開いているヒトは何事からでも「良いこと」を感じることが出来ます。楽観的というか前向き、というか・・・ポジティヴなんですね。恐れが強いヒトは反対にハートチャクラに何かしらのもやがかかっている人が多いです。

日本人は不思議な民族だと思います。慈悲やわびさびなどがある文化の中で、なぜかハートチャクラの部分だけとても小さいのです。「おかげさま」という言葉があるしやおろずの神々が住まうという概念までありながら、ハートチャクラだけはなんだか小さいのです。

現代という時代がそうさせているのか。

島国で生きていくための知恵なのか・・・・。「みんなと同じ」ことで生き残ろうとする。しかし、「きれい」と感じるものはヒトそれぞれ違う。赤い色が好きなヒトもいれば緑色が好きなヒトもいるように。なのに「みんなと同じ」ことを望まれる社会。・・・・ハートチャクラがもやがかかるのもうなずけるのです。

私はすごく感じるのです。「それで生きていくのはこれから苦しいよ」と。

同じ出来事が起こってもハートチャクラにもやがかかっていると、すんなりとポジティヴに変容させられないことが多いのです。この不況や様々なことが起こる時代にそれらをすべて恐れを元にネガティブに変容させていたらそれこそ「生きる楽しみなんてない」なんていう事になりかねません。ヒトが赤い色が好き、ということに「?」と思いながら「そうだね」と言っているようでは自分で何かを引き寄せることは難しいのです。「私は青い色が好き!!」と主張できるからこそそれを自分の手元に引き寄せることができるのです。

ハートチャクラを開き、本当に自分がきれいだと思うものをきれいだと感じ、そしてそれを自分で引き寄せる。それを理解すると「嫌なこと」なんてなくなりますよ。

恐れを抱いてそしてそれを他者に撒き散らしていては、そこから発するものに引き寄せられてそれなりのもの、が手元に来ます。不況だのなんだのと社会がざわついている時代だからこそ、そういった状態でいれば「それなりの」ことを引き寄せてしまいます。

とても説明するのは難しいです。ポジティブになるために他者をどうでもいいと思うのもこれまたハートチャクラにもやがかかっています。・・・・一番説明しやすいのが「愛にこころを開きましょう」っていう表現になります。他者を排除する方向性ではないのが「愛」です。愛すること。そしてそれがポジティブな変容が成されるスパイスのようなもの。

「そこに愛はあるのかい?」と問いかけられるのがハートチャクラの学びです。

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私の世界②

上手く説明できないのですが、「ヒト」というカテゴリーが私には明確にあります。

「社会生活を問題なく過ごすこと」「他者を傷つけないこと」「秩序を守ること」・・・・「ヒトの社会のために」なのです。

「ヒトは地球にとって害だ」と自然保護の団体で極論を推奨しているところもありますが、そうは思っていません。なぜなら、この地球で生まれる生命体はどんな小さきものでも「食し」「生きる」つまり「自分で全てを生産し生きる」ことはできないのがこの地球の理です。生きるためには何かしらを「食す」つまり「相手を食べる」という行為が「生きる」ということです。

それをもっともっともっと狭めて「みんなが過ごしやすい秩序」を守るためのことが多くのルールとして存在しています。

宗教や様々な信条もそう。「豊かに生きるため」だったり「感謝するため」だったりに作られた一種のルールです。「悪いことをしたら罰が当たるよ」と「言われているから」「悪いことをしない」・・・・・ルールがなければ悪いことをするのでしょうか?

いつも記事で書く「自分自分なんだね」ということと繋がっています。

どんなときも「自分」でいる。だからこそルールがなければ相手を慮ることができないってことです。他者のために自分を動かすことが難しいらしいのです。そして、それを歓びと感じるヒトも少ないってことなのです。

「自分が満足するために」「他者を悪者にする」・・・・・これをパワーとするなら「共に満足するために双方が譲り合う」=「協調する」なのではないかな、と感じます。つまり、与えることと与えられることのバランス、です。

みんな「個」であることを経験しに今、地球にいます。ですから、「自分自分」でいることがいわゆるこの地球を楽しむルールでもあるともいえます。しかし・・・・一体いつまでそれを続けるのでしょうか。人類が誕生して数万年。現代で言えば様々な今までの人類の歴史を学ぶチャンスがいくらでもある。そろそろ「共に満足するために双方が譲り合う」ということを気づけてもいいはずなのではないかな、と感じます。自分が満足している脇で、苦しんでいるヒトがいる・・・・。あなたの満足のために。・・・・それでいいんですか?と問いたくなるのです。

時々感じます。

「本当に私を必要ない、というならば私は去ります」と。ヒトが私がいることで本当に不幸ならばそこを離れる。例え、私自身がそこにいたくても、です。いままで多くの場面でそれを感じ自ら身を引いてきたことがあります。本当は続けたかった関係も、相手の中で私の存在が嫌なもの、とされた瞬間に私は離れます。それが相手の世界で、フォースに変換された結果だったとしても。

なぜなら、穏やかであってほしいから。

私がいない世界が「幸せ」と感じるならば、それでいい。

一時期「執着がなさ過ぎるかなぁ」と考えた時もありました。去るもの拒まず、だし私をイヤダというヒトには近づかないってことだから消極的、と取られることも少ないくないです。・・・でも、相手にとっては「その世界」があるのですから、私がどんなに幸せでもそれが相手の幸せとは限らないわけです。

私にとってはいつでも共に過ごせることが幸せで、そのヒトのために何かが出来ることは歓びです。けれど、フォースの世界は際限がない。「自分自分」でいるヒトの世界で私はへとへとになります。

例えて言うなら・・・・私が5歳で一生懸命自分より小さな子の相手をしていて、あぁほっとしたいと思ったら、実はみんな私よりもっと幼い子供たちだった、みたいな。そこで私は私より大人を探すのです。・・・・それが、私にとってはエンジェルやマスターたちだった・・・というようなことでしょうか。「あぁ、やっと大人に出会えた!」という安心感、嬉しさ・・・・。それが初めて伊勢神宮をお参りした時に感じたことです。生まれて初めてほっとしたのです。あぁ、ここにいるときは甘えていいんだ、と。そのエネルギーの中で私は唯一「自分自分」でいられるのです。・・・・3歳児のおもちゃを取る・・・そんなことは出来ないからです。(本当の5歳児はしますけどね 笑)

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私の世界

5月はマヤ暦で言うと「スペクトルの月」です。

「私はどのように解放させ、成すがままにさせるのか?」ということが問われている月です。

それに合わせて過ごしていました。何を感じるのか、何を思うのか、何をしたいと感じるのか・・・それらをすべて「成すがまま」に解放してみようと。私の中から「そうではない」ということをはずしてみたのです。

すると・・・・「私の世界」が浮かび上がってきました。

先日、親戚の新築祝いがあり2年ぶりぐらいにあう叔父さんや叔母さんなどとも会うことが出来ました。・・・・純粋に「ありがとう」と感じました。なんて表現したら言いか・・・・私が生まれた頃から見守ってくれていたんだろうなぁ、と思うとありがとう、しか出てきません。

そして「どうか穏かであってください。どうか幸せであってください」としか言い様がありません。

その時、ふと「あぁ、そうか」と分かったのです。患者さんや友人、全てのヒトに私はそう願っているんだ、と。「どうか、笑って。どうか、穏かであってください。」と。

いろいろなヒーラーの方に、いつも言われていたのです。

「自分を大切に」と。「自分の世界で生きていいんだよ」と。

でも・・・そこが私には難しかった。前記事のようなカルチャーショックも一度や二度ではない。他者のために何かをすることとは真逆のカルチャーショックばかりでした。

「どうして上手く伝わらないんだろう?」「どうして穏やかであってほしいと願うのにそれをフォースに変換されるんだろう?」と不思議でならなかったのです。まるで、私が異星人のように感じてしまうぐらい不思議だった。

・・・・でも、叔父さんや叔母さんに久しぶりに会って「どうか幸せであってください」と願う気持ちは何ものにも変えることができない私の願いです。そして、全てのヒトにもそう願うのも私の願い。・・・・それが「私の世界」であることは変えようがないことを気がついたのです。

どんなにフォースに変換されていても、その気持ちは変わらないのです。だからこそもどかしいのですが。

「自分の世界を生きていいのですよ」といわれた意味がようやく分かったような気がします。私にとってはみんな素敵なヒトなんです。不器用なところやブロックがわんさかあろうと素敵なんです。「苦しまなくていいんだよ。あなたは素敵なんです」というのがわたしの世界だったのです。それを生ききればいい、ということなのだと。

馬鹿かもしれない。お人よしといわれるかもしれない。自分がない、と印象を持つヒトもいるかもしれない。けれど、それでいい。

そんな私の世界を「そんなきれいごとな世界なんかないんだよ」と踏みつけるヒトや物事は私には必要ない。「あなたはそう生きればいいじゃない」ということだけ。「きれいごと」と言うけれど、「きれいなんだよ」ただそれだけ。

「ヒト」というカテゴリーしかなく、親も友人も知人も仲間も全て「ヒト」。そこに私にとって境界線はない。地球も宇宙もすべて。

みんな、「今」という時を同じ「地球」で過ごしている。そのことに感謝してる。出会えたこと、共に時間を過ごすこと、励ましあったり笑いあったり・・・・そのことに感謝してる。

「そうではない」という価値観を解放して、見えてきたこと。

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カルチャーショック

ちょっとびっくりするようなことが発覚いたしました。

今まで私の中ではヒトと付き合っていく中で、必ずしていたことがあります。それは「いつでも会える様に自分の都合をあわせていた」ということです。最近、家族にはそういったことは主張できるようになってきてはいましたが、家族ではない場合ヒトと会うってことは、双方が「会いたい」と思い、双方がそれに合わせて都合をつけるものだと思っていました。

ここまではいいとして・・・・・。

私は例えば誰かから「今日空いてる?」と言われた場合、①どうしてもずらせない用事がある場合②以前からすでに決まっていた用事がある場合以外は「空いてるよ」と答えていました。②に関しては様々ですが予定はしていたけれど、ずらせる用事ならば「空いてるよ」と答えていました。

なぜなら「相手が会いたいと思っているからそう聞かれる」と感じますし、そもそもずらせることならばずらします。そうしなければいつまでたっても「会う」という行為には行き着かないと思っていたからです。

けれど・・・・最近判明したのは・・・・「ずらせる都合だけれどずらさない」というヒトの方が多い、ということです。・・・・ほよよよよよ??

ってことは・・・・極端ですが・・・「自分の都合のいいときだけ会う」ということです。

「相手に合わせる」ことは?二の次、なのか?

それを最優先にしている私が少数派なのでしょうか?

例えば、「買い物」・・・・私にとっては「いつにでもずらせる用事」です。掃除も洗濯もおおよそ日常で行うほとんどは期限があるモノでない限り「ずらせる用事」です。それを優先して会う機会を逃し、そしてそれが最後の機会だとしたらもう二度と会えないこともある、と私は思っています。恐れているわけではありません。「タイミング」ってあると思うのです。

相手が「会いたい」と言ってきているときに会わないでいつ会うのでしょうか?自分が会いたいときに会えるとは限らないでしょう?

ちょっとカルチャーショックでした。飲み会やいろいろな食事に行ったりしていたのも、私の場合「いつでもいいよ」と答えていました。ヒトにはそれぞれいろいろな用事があります。だからこそ「会えるときに会おう」と思っています。しかし・・・「ずらせる用事を優先」して「飲み会の日程」が組まれているとは想像もしていなかったのです。

「そのレベルで言っていたら私にだって都合の悪い日はあったのよ」みたいな感じです。

あ~~びっくりした・・・・。

なんだか不思議です。ここでも「自分」なんだぁ。ってことは・・・出たくないから電話にも出ない、ってありなんですね。用事があるから電話してきてくれているのだし・・・といつでも真面目に出ているのは少数派なのかなぁ?

いろんな価値観があってびっくりです。

「もっと自分を大切にしましょう」と言われるのはそういったことなのかなぁ・・・。

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リアリティ:アクトレス(女優)

以前、リーディングをしてもらったその方はこう言いました。

「私は相手に合わせて演じますよ」

と。それってどうゆうことだったのか、今になると納得の一言です。

前記事や私が書く記事の中でいろいろと書いてはいますが、「どう生きてもいい自由」があることも、「何を考えていようが良い自由」が私たちヒトには一人ひとりにあることもわかっています。

私は「相手の世界」を痛切に感じてしまうこのやっかいな特性をなぜ持って生まれたのか、とても不思議でした。ほとんどのヒトはこの感覚は「想像」だったり「慮る」や「そうなのかな」という客観性を維持しながらの感覚なのだと思います。しかし、私の場合は「リアル」に察知します。これは自分でもはじめは信じがたいことでしたが、それを伝えるとやはり一致しているということの裏づけが取れてしまいました。

いろいろと書いている中で、時々自分でも不思議になります。

「相手が何を考えていようが、何をしていようが私のことではない」と分かっていながら、リアルに感じてしまうばかりに「相手のその世界の自分を演じ続けている私」がいることです。いちいち「そうじゃなくてね」と解説するのも疲れます。

相手の世界がフォースである限り私の言葉はフォースに変換されます。そして、何をしていても私はフォースの姿でそのヒトの世界にい続けるのです。それを私はリアルに感じます。あぁ、今ネガティブな感情を抱いたな、とか。

それだけなら「ふむふむ」で終わります。しかし・・・・そういったヒトは多くの場面で他者を自分の中で悪者に変容し、いつしか悪口を言ったり、時にはいじめたりします。

・・・それに納得がいかないのです。「あなたはどう感じていてもいいさ。何を考えていようと。でも・・・それをまき散らすのはどうなの?」と。私にとってはいささか理解できない。

エネルギーの面でもネガティブに染まってしまうとそれをエネルギーとして周りに充満させます。どんどんと自分でそのエネルギーを充満させるから、どんどんそういったことを呼び寄せてしまいます。

・・・・それを見ているのが正直疲れます。自分で苦しみを作り、そしてそれを他者のせいにし、そして周りを巻き込もうとする不安を怒りに変えて発散させているのです。・・・それでは、どんどんヒトは離れていくし「愛されたい」という思いを「愛す」という行為には変換できません。

「私はいつまであなたのその世界を演じていればいいですか?」

と感じてしまいます。「ありがとう」をそのまま「ありがとう」という感謝の言葉だと感じてくれるにはどうすればあなた方は納得するのでしょうか。

本当の自分を見せる・・・?よく分からない言葉です。いつでも私は本当の私でいるのです。

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リアリティ:変容させている

ヒトは「自分の中で全てを変容させて」います。

私が「最近頑張っているね」と声をかけたとします。

恐れが強いヒトは「じゃあ今まで私は頑張っていなかったように見えたんだ」と変容します。そうでないヒトは純粋に「ありがとう」と感じます。

人々の中での変容にこれまたほよよ?となります。

どんなに誉めても認めても、そのヒトの中でネガティブに変容されていくことにたまに疲れます。何を言っても「あなたはそうゆうキャラクターだから」というフィルターをかけられ、勝手にネガティブに解釈しそして、その感情をあらわにしてくるのです。

「頑張ってね」は「頑張ってね」でしかないし、「ありがとう」は「ありがとう」でしかないのに。

「もっとこうすると上手くいくのではないの?」と言っても「それを出来る自分」を信じていなければ「どうせ私はそれが出来ないんです」と変容されます。・・・・出来ると信じているのは私だけですかい?と言いたくなります。

「パワーかフォースか」という本があります。あぁ、まさにそうだな、という表現です。

「行うこと」:「得ること」

「共感すること」:「哀れむこと」

「感謝すること」:「義理があること」

「率直な」:「計算高い」

「思慮深い」:「手ぬるい」

「立ち向かうこと」:「侵略すること」

「受け取ること」:「握ること」

「信頼すること」:「依存すること」

「つましい」:「安い」

「励むこと」:「あえぐこと」

「礼儀正しい」:「こびへつらう」

左がパワー:右がフォース、です。

私が「信頼」を寄せていても、それを依存として受け止められてしまう。率直に言っても計算だとされてしまう。・・・・・パワーで提案してもフォースに変換されてしまうのです。

「ありがとう」をどう変換しても「ありがとう」のはずなのに・・・・。

時々「じゃあ、どう言えば君たちは理解するのかな?」と感じます。「感謝」という一言でさえも「こうされたから」「感謝するわ」なのです。・・・・それって義理でしょう?と問いかけたくなります。「こうされなくても」感謝は感謝なはずでは??義理だと思っている限り、自発的に「ありがとう」という行為には到らないものです。「こうされたから」の部分に「返す」という範囲に留まるのです。慮る・信頼する・・・・そういったことが「義理」でしょうか?

自分がどれだけ「フォース」に変容させているか、見つめてみると自分の中の様々なブロックが発見できます。そして、どれだけヒトというモノを信じていないかも見えてきます。

好きなヒトが何をしていても素敵なように、どんなヒトのことも素敵に見ることが出来るのです。いい加減、フォースから離れましょうよ。

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優しさはヒトをダメにする?

前記事とも重なるのですが、あまり個人的にはそのヒトがどんなヒトであれそれがそのヒトのあるがまま、と感じています。みんな素敵なところを必ず持っています。ほよよ、と思う前記事の様なことがあっても、「まぁ、そうなんだろうな」と思ってしまいます。

「良い」「悪い」ではなく「ほよよ??」なのです。そして「ふむふむ」となり、「まぁ、そうなんだろう」と。

これを繰り返し繰り返ししていると、不思議なことにもっと「ほよよ??」な感じになります。

「何をしても受け入れてくれるヒト」という「ほよよ??」に繋がっていくのです。

かといって、私がそれをし続けることが苦痛になることは滅多にありません。しかし、不思議でならないのです。どんどん横柄になりどんどん「当たり前」となりどんどん「何をしても良い」となっていくことに「ほよよ??」なのです。

そこで、考えてしまいます。

「私のこの受け入れ態勢は実は相手にとってはどうゆうことなのだろう?」と。

私自身は問題には思わないのですが、平気でヒトがしてくれていることを「当たり前」と思う傲慢さを助長してしまっているのではないかな、と感じてしまうのです。かといって、それを伝えるにもイマイチ理由がない。「それがあなただから」という私の感覚でいうと、です。

とても、不思議な感覚で過ごしたりします。「それがあなたなのだけどね」と思っているのに「でもその傲慢さを手放そうよ」と提示するのです。・・・・ルールがないと、そんなことも分からんのか?と投げかけるのです。

「感謝することがない」のは最たる「傲慢」です。

「なぜ、そうして今生きているのか」=「なぜ、そうしてその関係を築けているのか」ということに傲慢になっていく周りの人々を目の当たりにして、最近はよく考えさせられます。

「無条件に受け入れられることが信じることが出来ない」という恐れが傲慢さを生み出しています。「こんな私でも受け入れられるの?」とどんどんその姿を見せつけて「それでも私を愛していると言うの?」と叫んでいます。

・・・・・なにがそんなに恐いのでしょうか。恐れるのでしょうか。

「だってそれがあなたじゃない」と言われるのが恐いらしいのです。全てを受け入れられることが不安なのです。そして、「そうではない」方向の行動を重ねるのです。

優しくされて傲慢になっていくヒトほど、恐れが強いのだろうなぁ、なんて感じる毎日です。

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自分を大切にすること

私は今まで「自分を大切にすること」という事がよく分からないでいました。

エネルギーで言えばラファエルの「癒し」という事が今、私のテーマとなっています。自分を癒すとはどうゆうことなんだろう?と長い間の疑問でしたが、最近それが顕現し始めています。「自分を愛する」とも言われていることなのですが、イマイチどうゆうことなのか理解できなかったのです。

最近感じたのは、私にとってヒトの話を聞くということはあくまでも「全て」としています。前記事にも少し書きましたが、相手が話したいことを全て聞きます。こうゆう事は聞きたくない、とか、この話題だけ、とか枠はなく聞きます。だって、どんな感情でもどんなことでも「そのヒトのあるがまま」ですから、私が「こうゆうことだけを聞きたい」と枠を決める必要はないからです。

・・・・けれど、多くのヒトにとっては「それは聞きたくない」という枠があります。私にしてみると、なんだか不消化な部分が残ります。話をしながら「あ、ここは聞いてはもらえないんだ」と考えながら、話したいことを話すわけではないからです。

仕事中の話を指しているのではありません。例えば、人に話を聞いて欲しいな、と思うときとか友人と結構深い話をしている時の話です。私の中ではどんな話でもそのヒトであることに変わりはないのでその話を聞いて「不快」だ、とかいう意識はあまりないです。なので、相手が話したいことを話してもらっていい、と思っています。

例えを書くと・・・・ある時友人が「私は死にたい」という話題になったとします。だとしても私はその話を聞きます。では、どうしたらいいんだろうね、と本当に思うから。けれど、時が変わり私がそうしたダークな悩み事があるときには「私はそれは聞きたくない話題だわ」と聞いてもらえないことが多いのです。

聞いてあげたのだから聞いて欲しい、ということなんかではなく・・・・なぜ、「自分」ばかりなのかなぁ?と本当に不思議です。どこに行っても、どんな話題でもそうです。「自分」が話したいことは話せる環境に在りながら、それに気づきもしないし、そして自分もそうした環境を作ろうとも思わないのです。いつでも自分、自分。

こういったことが最近顕現が著しいです。ダークな話はもうすることはあまりないし、楽しいこと嬉しいこと、こんなことあるよ、あんなことあるよっていう話が多いです。しかし、そうでさえも一方通行が多いのです。

自分を大切にする、とどう絡むのか、ということですが・・・・。

「そういった関係は果たして私の歓びだろうか」

「自分は無理をしていないか」

「きちんと自分を主張しているか」

などなどが挙げられてきました。今まで???と感じながらいたことなのですが、けしてそれは無理をしていることではなかったし、話を聞くことは本当に私にとって「そのヒトのあるがまま」の姿を聞くことなのです。しかし、そうしたことを感じるときは私の「あるがまま」を見せられないことに???と感じていたわけです。

感覚の違いはあるのでしょう。けれど、最近はどうもそうゆう関係にはいい加減疲れてきているのだという事も分かってきました(分かるようにモノゴトが起こっているので分からないなんてことはないのです 笑)。

「自分を大切にすること」・・・・「与えることと与えられることのバランス」なのだな、と感じています。

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かわいそうだから・・・?

日常でよく耳にするのが「かわいそうだから・・・」という言葉。

この言葉に集約されている様々なことがあり、この言葉を追求していくといろんなことが見えてきます。つい、「かわいそうだから・・・何?」と聞いてみたくなるようなこともあります。

重要なのは「それならば、何をするか」ということであって、「かわいそうだから」で止まってしまっていては何も始まりません。

しかも、かわいそうだから→行動、というものを上手く繋いでいけない場合があります。選択肢が「感情論」になってしまうとその方向性を見失ってしまうのです。行動するのはあくまでも「実際」。感情で全てがまかなえることはないのです。

「かわいそうだから」と「行動」の間に一体何が含まれているのか、ということです。

相手のためを思って何かをするとき、そこに「自分への見返り」を期待して行うと純粋な相手のためではなく「私とあなたのため」という行動になります。

かわいそう、も同じです。かわいそうという自分の感情に埋没してしまえば、相手に今一体何が必要か、ではなく「私がかわいそうだと思うからこれをやる」というものも含まれるのです。「私が」・・・・?正直「あなたはどうでもよろしいよ」というところです。かわいそうな境遇にいるのはあなたではなく「相手」であるのに、「私が」かわいそうだと思う・・・・。矛盾していると思うのです。・・・・そういったことが含まれていると「私のかわいそうという感情を解決するための行動」となっていってしまうことがあるのです。

本当にそれが相手のニーズに沿っているのかどうか。

「かわいそう」なら「何をするか」なのです。

時には話を聞いてあげることだけでもいい。時には何かしらのアクションをすることが相手のためになることかもしれない。時には憎まれることでその役目を終えていることもあるかもしれない。

けれど、「私が」という感情論に埋没してしまうとそこに「自分の欲求」も絡んできます。そうすると憎まれることが嫌なヒトは憎まれ役は受け付けません。話を聞いてあげるといいながら聞く耳を「ここまでならね」と自分の枠を決めます。相手が話したいことを話してもらうのではなく「聞きたいことを話してもらう」ということになります。アクションを起こすときにも、「自分に出来ること」の中からさらに「これならいいよ」と枠を決めます。

・・・・・本当に「かわいそう」と思うなら、「相手のこと」なのではないかな、と思います。

もちろん、「自分に出来る範囲のこと」であり無理をする必要はありません。しかし、感情だけではヒトに何かをしてあげることは難しい。冷静に見つめれば「欲」なのか「自分の出来る事なのか」という境界線が見ることができます。感情を解決するために何かをする、のではなく「相手のニーズに自分の出来る範囲で行動する」ということです。

遠回りをしているように見えて、実は率直です。「あなたってかわいそうね」と同情されることを望んでいるヒトならば同情してあげてもいいですが、そうではなく相手が何かしらの解決策やアクションを望んでいるのであれば、それについて行動することです。相手の感情をやわらげてあげるには、それに対し「何をするか」。一見繋がらないように見える行動でも、本当に相手のニーズに沿っているならば、いずれ相手の感情もやわらいでいくのです。そして、実際の問題も解決に向かうのです。

「かわいそうだから」と思うことについて、自分がどのように行動を起こしているのか、そこには自分の何が含まれているのか見つめてみると意外なことが見えてきますよ。

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宿命②

例えば・・・私はどこから見ても「日本人」です。親や環境その他もろもろから見て。それなのに私が「私は金髪の白人女性でアメリカ人です」と言い張っても「そりゃあ無理があるよ」ってなわけで。モンゴロイドだし黒髪で彫りも深くない。親だって生粋の東北人でどうみても白人には見えない。・・・・・・つまり、これが宿命の部分。

しかし、例えば親が若い頃アメリカに渡り、そこで私は育ち英語もペラペラ、基本的概念もアメリカ社会に根付いていたとしたら・・・・つまり、これが「個」としての部分。

こういったことを「自分」というスピリットに焦点を当ててみると、「なぜ自分はこの自分で生まれているのか」という部分や「何が出来るのか」などが見えてくるわけです。

生まれ持った特性を「宿命」とし、そしてそれを最善のカタチで行使する。

カタチはどういったものでもよくて、「最善に発揮される状態」であればいいのです。

今の自分に当てはめてみると・・・例えばNS。看護という仕事は私のカタチとしてはまずまずな感じ。けれど、もっと細かく言えば「人体の理」を知り、それを行使することが実は楽しい。「こころ」もその中に入るし、「意識」もその中に入る。「これこれこうだから‘こう言えばいいんです‘」という教科書的なことは興味がない。一つの病気があっても患者さんの数だけ症状の出方も違う。もし、これが一辺倒に「全ての患者さんに同じ様に症状がミリ単位で同じ」であればそれこそ興味がない。全ての患者さんの数だけ症状も違えば、こころも違う。もちろん意識も違う。だからこそ、私の中の最大の特性である「創造性」が発揮される。・・・・つまり、これが私が客観的に見て「看護」が私にとってまずまずな「カタチ」である理由でもあるのです。

私にとっての「宿命」な部分は、「創造性を発揮できること」=「創造性を発揮すること」という大きなものがあります。それが発揮できないものは興味がない、というのが実際のところです。けれど、それは「看護」でなくてもいい。こうして探求を続けているのもそのひとつ。創作はその際たる特性でまさに「創造性を発揮する」という「カタチ」。

どんな仕事でもどんな環境でもこの「創造性」は発揮できるものです。しかし、「ある一定のルール」を守りながら行使されるのがいわば「仕事」。そのルールを納得できれば私の場合はどの仕事でもいい、ということになります。(看護のルールは‘メディカル‘というもの)

こうして見てみると・・・・様々なことを経験できるようになっているなぁ、と感じます。たぶん、他のヒトと何かをするときでも私はこの「創造性」にこだわるだろうし、それを行使できることを好むと思います。一風変わった行動もしかり。それを「こうしなさい」と押さえつけられることに猛烈に反発するのも理解できる。(占いでは‘斜にかまえる‘と表現されてしまいますが)環境や状況が「安定」し「動かなくなる」「固定されてくる」と私は猛烈に動きたくなります。・・・そこには「創造性」が薄いってことですから。「こうしなさい」という枠が出来上がってしまうと、それを超えたくなります。もちろん、それは変容であって破壊ではないのですが。

「青い惑星の嵐」という特性もますます理解できるわけです。

多くのヒトが、自分の特性や宿命を理解し、受け入れそれを最善のカタチで行使することが出来ればいいな、と思います。

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宿命

「宿命」・・・結構慣れ親しんだ言葉です。けれど、私にとってそれが何を指すのか分からないでいました。「運命」に関しては早い段階で「創り上げるもの」と理解したのですが、どうも「宿命」というものが何を指しているのか、理解しているようで難しかったです。

例えば「生年月日」からはじき出される様々なデータ(星座や暦、易、特性、長所短所・・・等)から読み解けるものは多々あります。なぜ、生年月日からそれらをはじき出すかと言えば「なぜ、あなたはその瞬間に生まれたのか=これら特性を持って生きることを選んで生まれた」ということです。地球以上の世界を含めるなら「宇宙があなたに何をして欲しいか」「天があなたに何をして欲しいか」=「それらをするためにあなたはその年、その月、その日、その時間に生まれた」とも言えます。

『全』としての部分が上記で言う「天があなたに何をして欲しいか」であり、『個』としての部分が「これらの特性を持って生きることを選んで生まれた」ということです。それがマッチしたからこそ「誕生」という瞬間が訪れたわけです。言い方を変えれば「私という‘個‘としてのスピリットと、天という‘全‘との契約」みたいなものでしょうか。

それなのに・・・私は今まで「何が宿命なのか」ということが分からなかったのです。どちらか側からしか見ていなかったのです。「個」なのか「全」なのか・・・という「どちらか」です。だから、「全」として出来ることと「個」として出来ることが重ならなかったし、「どうして私はこんな風な特性を持って生まれてきているんだ?」とイマイチよく分からなかったのです。

「全の一部として担っていること」=「個として活用する特性」がマッチすることが、すなわち「たましいの道」である=「宿命を受け入れる」ということなんだろうな、と今のところ結論が出ました。

分かりやすく書くと・・・・「奉仕」を特性として持っているスピリットは「何をしていても」それは「奉仕」であるのですが、それが「個」として「何を行使するか」ということ。「カタチ」です。「母」となり「奉仕」とするのか、「どんな仕事」をして「奉仕」とするのか、みたいな。中には「悪」というカタチで「奉仕」としているヒトもいることでしょう。(全としての視点です。それらがあることで‘それが一体何なのか‘を知る、ということが出来るのですから)

「今自分は何をしているのか」という自覚が「宿命」を理解する道だということです。そして、それらをきちんと行使できる「カタチ」を手にしているかを見ることが「たましいの道」を見つめる作業なのだということです。

昔から「何をしてもいいですから、それを極めてごらん」と言われていました。「何をしてもいい」という言葉に「??」がついて回ったのです。つまりは「私が何を‘カタチ‘として選んでもいいんですよ」ということなのです。どんな仕事でもどんなことでも私は私を生きている限り「全の一部」であることに変わりはなく、「天との契約」のままに存在している訳です。今のところは「カタチ」として「NS」を選んでいるわけです。

・・・・こうして見てみると、「どこへ行っても同じ様な学びが来るんだよなぁ」っていうことの理由が分かってきます。「カタチ」はどうであれ「起こるべき事が起こり」「成すべきことが成されている」のですから。

1ヶ月前ぐらいにこの「宿命」を受け入れました。そしたら・・・・いろんなことがクリアになってきています。まだまだ、うまく最善のカタチで私の持ちえる特性を行使できる段階にはなっていませんが、少しづつ「たましいの道」と「カタチ」が一致し始めてきています。面白いなぁ・・・。

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私にとって

少し前に「オーラリーディング講習会」というものに参加してみました。オーラを視ることが何に繋がるかは分かりませんが、とりあえず行ってみよう、ということで。

その時の講師の方に言われたこと。

「まだ、何にゆだねるか決まっていないんですね。」ということと、「これはちょっと大変ですね。」ということでした。

「まだ何にゆだねるか決まっていない」ということも自分では分かっていて・・・・。例えば、人によっては「仏教的概念」だったり「キリスト教的概念」だったり、いろいろと「信条」があるものです。根本を追求すると「同じ」ことなのですが「マイトレーヤ」なのか「布袋様」なのか「薬師如来」なのか「ガブリエル」なのか・・・という、いわゆる「表現の仕方」なのですが、私にとっていまだしっくりくるものがないのです。(マイトレーヤもガブリエルも‘喜び‘というエネルギーを現すものです)

「表現の仕方」「系統」様々に言えると思います。

イマイチしっくりこないのは「同じじゃん」って感じてしまうことで・・・・わざわざ「分けて」考える必要があるのかさっぱり分からないのです。もちろん、「背景」がはっきりしていると「意図」も設定しやすいし、発動もしやすい。けれど、それを総括したものがないのかどうかを探求している段階なのです。密教のマントラを唱えるのか、エンジェルたちに「お願い」をするのか・・・はたまたきちんとした「儀式」のようなことをして発動するのか・・・・・。

そういったことが「まだ決めかねている」ところなのです。

その作業も着々と進み「オリジナル」を構築している段階です。私にとって一番私の意図を乗せやすく、そして発動しやすいカタチを模索中なのです。そのためにいろいろなエネルギーを身を持って感じてみたり、学んでみたり・・・・。

「これは大変ですね」と言われたことは、どうやら私の頭の後ろの方にがっつりと繋がってしまっているらしいのです。「わたし」と。つまりは「ハイヤーセルフ」と言える存在。「大変」というのは「あまりに高次なところと繋がってしまっていて実生活と繋げるのが難しいだろう」ということらしいのです。

・・・これも、納得、のことでした。一人でいるときはダイレクトに繋がっていて楽、です。しかし、外へ出ると様々な「ジャッジ」がついたことで回っている世の中と渡り合わなくてはならない。私にとっては正直「どうでもいい」と感じることが、周りの人にとってはとても大事なことだったりします。(意地やプライドや見栄、恐れなどにしか感じないのですが)

それらを切り替えるのが結構大変なのです。「どうでもいいこと」にこだわっている世界でグルグルしている人に「それってどうでもいいんじゃない?」と言っても通じません。

「どうでもいい」とは「そこじゃないよ」ということなのですが、どうもそれを伝えていいかも分からないし、そもそも「そう生きていてもいい自由」がそのヒトにはあるわけですから・・・・。

私にとっての「探求」はまだまだ続くようです。どうしても、まだ私の中に「普通でいたい」みたいな変な感覚があって・・・・。変人が何を言うか、と友人には言われますが。私はこうして生きてきたので私にとって私はあくまでも普通で・・・・。ヒトと比べると変人な訳で・・・(笑)。

ここ数年でいろんなことが分かってきました。それをこれからもチョロリチョロリと書いていきます。

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新規に

長々と続いていたこのブログも時々削除などをしていたのですが、ようやく踏ん切りがつき新たに書いていこうと思っています。過去の記事は削除しましたので、あしからず・・・。

いろいろなことに整理がつき、書いていきたいことも日々変わっていくのでそれに合わせて・・・という感じでしょうか。探求は日々続き「あぁそうか、あぁそうか」みたいに初期のころとはだいぶ変わってきています。

過去の記事は後から見ると「こんなことをこの時は感じてたんだなぁ」なんて振り返れるのですが、自分自身でも「きちんとまとめる」ことがイマイチな状態だったので、過去の記事と重複はしていくとは思いますが、日々の探求道を徒然に書いて行こうと思っています。

前回までの記事を長々と読んでくれていた方々、ありがとうございました。

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