願い事
前の記事で少し書いたのですが、「願い事が叶う」ということについて少し書こうと思います。
ある友人の話です。
「子供がまだ19歳なのに彼と仲が良すぎる。せっかく大学まで入ったのに子供が出来たらどうしよう?そういったお願いも聞いてもらえるの?」
というようなことを聞かれました。
この場合、「子供の幸せを願う母の願い」は聞き遂げられます。しかし「子供が出来たらどうしよう」という部分は別です。説明すると「その子にとっての幸せ」は叶う、のです。それが母の願いですよね。「子供が出来たらどうしよう」は母としての心配、です。しかし、その子にとって「今お子さんが出来ること」が幸せな道ならばその母としての心配な部分は叶わないことになります。
「まだ19歳なのに・・・」ろいうのも母心。「子供が出来たらどうしよう」というのも母心。しかし、根底にあるのはどんな理由をつけても「この子が幸せでありますように」という願いです。それはきちんと叶うのです。ただ、そのカタチは母心とは一致しないこともあるのです。
こう考えると「願い事が叶わない」なんてことはないのです。
もっと細かく言うと、「ひとつのスピリットとして学ぶこと、経験すること、感動すること」が大きなスピリットの目的としてあるのです。お子さんを生むことでそれらを体験することもあれば、社会経験を積んでもしかしたら何かのスペシャリストになってそれを経験するのかもしれない。それは「個」としてひとつひとつのスピリットが選んでいけるもの。たとえ「母」であろうとそこは別なのです。
願い事を願う時、「おおまかに」「本当に叶って欲しい部分」だけを願うことで、その答えは「はっきり」としてきます。
「お金が欲しい」という願い事だとすれば「どうか、私が経済的不安がなく暮らせますように」とするだけでいいのです。そこに「宝くじが当たりますように」とか「これこれこうゆう風に」と限定したカタチをつける必要はないのです。もしかしたら「良い仕事」が見つかるかもしれないし、節約方法が見つかるのかもしれない。はじめは「苦労」に感じても後々、その経済的不安から解放されるプロジェクトに関わるのかもしれない。いろんな「カタチ」でサポートしてくれるのです。「お金が欲しい」と言っておきながら「働くのがイヤ」ではお金が入ってくることも難しいでしょう。お金が欲しい、と言っておきながら無駄遣いばかりしているのでは経済的安定は不確かになるでしょう。そういった状態にあるのならば、まずは「働こう」とか「これは無駄かな」とかということに気づけるようにサポートしてくれるのです。
ですから、「長いスパンで」叶えられているということ、そしてその願いをかけたときからそこへの道は始まっているのだという事を知ると、楽しくなります。「そうか・・・ここをどうにかすればいいんだな」というような「気づき」として「直感」としてサポートのサインを送ってくれます。そして、それに従ってみる。そうすると・・・いつの間にか願い事は叶っているのです。
なんの繋がりもないような出来事でさえも、その願い事が叶えられるためのステップであるのです。


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