終末の映画

映画が好きなのでよく観るのですが・・・、ハリウッドなどに多いいわゆる「終末映画」。この前エヴァを観にいった時にも予告編が上映されていました。「2012」です。

今日もテレビで宇宙人はいるのか、とか2012年に何が起こるのか、とかやっていました。アセンションもそうだしマヤ暦でも終末については談義されています。

・・・・結局は・・・「人類にとって」なんですよね。今までの地球の歴史を振り返ってみても、何度も生命体の代替は行われてきているわけです。そして今回こそ「人類」なのではないか、というのが概ねの主張どころです。

「地球が静止する日」というキアヌ・リーヴス主演の映画も観ましたが・・・・かなり、がっかりな映画でした。「人間には代わるチャンスが必要なんだ」っていう理由で「滅亡」はいったん中止されるという最後・・・・は?ていうかんじでした。結局人類側のエゴばかりなんですよね。「宇宙にとって人類は・・・」という理由で物語りは始まるのに、結局「人類のために」という最後。宇宙のために、という大義名分はどこへやら・・・・・。がっかりな感じでした。

「終末」論議・・・・。そんなに「罪業意識」を持っていてどうするんですかね。「人類は滅びるかもしれない」と考えるってことは「滅びるべき存在だ」とも言えるわけです。自分たちが生きていることで何か「不都合がある」という考え方です。粛清されるべき存在であるから「終末」が起こりうる、っていう感じでしょうか。でもそれって罪業意識、ですよね。

何かを犠牲にしながら命を生きることになぜそんなにも罪業意識があるのでしょうか。そもそも、以前にも書いたようにこの地球では「他者を食す」ことで「生きる」のが理です。それに罪業意識を持っている。

だったら・・・・「おかげさま」とか「もったいない」とか「慮る」とかをもっと自覚すればいいのに。何かしらのおかげで今自分が生きていられることを自覚しないから罪業意識が積み重なってしまうのではないかなと感じます。「ありがたいなぁ」と感謝することで全てが変わってきます。罪業意識も手放すことが出来るし、終末論に恐れおののく必要もなくなる。

人類が滅びたとして・・・それがなんでしょうか?それが地球の歴史として時の中に過ぎ去っていくだけのこと。それでも地球はここに「在る」。それが地球です。

終末映画を観ると思います。「何を促すためにこれを作成するのだろうか」と。

「感謝すること」を気づかせるために、あのような危機的な状況までをもビジュアルにしないと人類は「感謝すること」も分からないってことなんだろうな、と。

そして、その一方で「なんとかなる」という、いまだに人類の力で地球をどうにかできると思っている傲慢さも感じます。古代の時代のように今ほど人口もなく、モノや様々な便利なものもなく生きていた時代に今の人類は生きていくのは無理なのでしょう。「おかげさま」というココロ(目に見えないモノへの畏怖)もなく、「地球上で一番」という傲慢さばかりを持ち続け・・・・それでは、地球はボロボロになるしかありませんからね。

好きなように生きて、そして地球はその因果により変容していきます。ですが、それさえも「それが地球の歴史」であるのですね。そこに「終末」・・・「人類の終末」があろうと、それは地球にとってはただの時の流れの中でのこと。

「人類が滅びちゃうから地球を大切に!」っていう表現が私は好きではありません。

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エヴァンゲリオン

エヴァを観てきました。

う~~ん。レイ・・・かわいいなぁ。「いいこいいこ」してあげたいです 笑。

テレビシリーズでは最後があいまいになっていたけれど、今回はエヴァとしての背景が確実に詳しく、そして「そう!そうなの!」ってかんじで描かれていてとても面白かったです。

私のイチオシは「初号機」です。これは10年前から変わらないですね。シンジでもなく「初号機」です。

セフィロトの世界観が今回は分かりやすくなって表面化して来ていることが嬉しい。テレビシリーズではセフィロトに関してもあいまいで、「分かる人はわかるでしょ」みたいな感じだったけれど、今回は「使徒」の立ち位置もエヴァの存在の立ち位置も明確になっていて嬉しいのです。

泣いたなぁ。シンジの「願い」から「覚醒」するエヴァ・・・。今、この地球に来ている波と同じですねぇ。サードインパクトがいわゆるスピ界で言われている「アセンション」ですねぇ。

「使徒」=「大天使」ですからね。「りリス」はセフィロトでいう「物質界」の「マルクト」です。別名「剥奪者」、です。それが「人間」ってこと。だからこそ「人類補完計画」なんていう計画があるわけです。補完する必要がない存在(映画ではレイとかカヲルです)とそれに焦がれる人間。でも本当は人間も「補完」する必要なんてないのですがね。ただ、思い出せばいいだけの事。みずからも「レイ」であり「カヲル」であることを。

カヲルの「シンジ君。君だけでも助けるよ。」・・・人間全てに言ってくれている言葉なんですがねぇ。ヒトはそれを信じようとしない、のです。いつまでも「補完されなければ」という枠をはずせない。レイはいきなり「りリス」=物質界に誕生させられて「人間ってなに???」みたいな子。かわいいなぁ。ほんと「いいこいいこ」してあげたい。シンジが一生懸命「愛」を教えようとしているけれど・・・・レイはレイでいて欲しいな。ヒト臭くならなくてもいいのにな。

毎回そうだけれど、エヴァを観るときって自分自身も大きな段階を迎えているとき。そうゆうタイミングで観る事になっているんだよなぁ。これもまた、面白い。

来週、もう一回観に行ってきます 笑。

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目に見えないことへの畏怖

前記事と繋がっているのですが・・・去年、伊勢神宮参拝をした時のことです。

ちょうど内宮の中では「神事」が執り行われていました。私もそれを眺めながら「ふわぁぁ~よきかなぁ~」に包まれていました。すると・・・若いバスガイドさんが大きな声で「はぁ~~い!ここが伊勢神宮の内宮ですよ~!参拝してくださぁ~い!!」と旗振りフリズカズカと鳥居をくぐり、ツアー客を案内してきたのです。

今回のご来光ツアーでもそれと同じ感覚がしました。

確かに神様たちは「それすらもよきかなぁ~」というなんとも大きなエネルギーたちです。・・・でも、ごめんね。私は人間ですから、神様のように大きくはなれません 笑。

お願いですから、もう少しだけ・・・・「畏怖」ということを感じることは出来ませんか?目に見えないモノに「愛おしい」と感じることは出来ませんか?

「畏怖」:「おそれおおい」:「感謝すること」です。

この日本を守ってくれているエネルギーである天照大神に「ありがとう」と感謝することは「宗教」でもないし「信心深い」でもなく・・・・なんと表現したらいいか・・・・。「今ここにいることをありがたいと思うこと」と繋がっていると思うのです。「あなたたちがいてくれたから今の私はここにいる」ということなのだと思うのです。父や母、ご先祖様たちを敬うのと同じことです。全て繋がっていて・・・・・「今」がある。それに「ありがたいなぁ」と感謝することがそれほど難しいことなのでしょうか・・・。

少し前の記事で「願い事」についてを書きました。

ヒトは「こうお願いしたんだからこう叶えてよ」と言います。そして、それがその通りに叶わないと「やっぱり神様なんていないじゃん」と腹を立てます。

ですが・・・・そういった存在たちは「それすらも」「よきかなぁ~」と言ってくれているのです。

どうゆうことなのか見つめて欲しいと感じます。

どれほどの大きな愛で見つめてくれているのか。

クァン・インと繋がった時・・・・「あんたすごいよ!慈悲ってすごい!‘最後の一人まで共にいます‘という観音様の言葉・・・私にはとても難しいことです!」と感じました。なんて、私は小さな人間だろう、と。いまだに、上記のようなことがイマイチ理解できないし、そういったヒトの最後の一人まで共にいる、なんて正直気が遠くなります。数千年たっても学ぶことが出来ていないヒトにそこまでの慈悲を抱くことが私には難しい。

・・・だから、せめて・・・「目に見えないモノへ‘敬う‘というココロを持ってはみませんか」といい続けたいと思っています。

どうしたら伝わるんだろう?と常々思います。

「感謝すること」「慮ること」・・・・「感じること」。

それがなくてもヒトは生きていけます。それがなくてはいけないものでもないです。ただ・・・それを感じることが出来た時、それまでとは違った「歓び」「感動」「嬉しさ」「愛」があふれ出すのです。せっかく生まれてきたのだから、せっかく肉体を持った「個」としてこの地球にいるのだから・・・・それらをもっともっと感じてみて、経験豊かな素晴らしい人生を送ってみてはどうですか?と感じます。「お土産を買うこと」「観光すること」だけではない素晴らしい経験がたくさん出来るのに・・・・。

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これは・・・?

富士山ご来光ツアーでのこと・・・・。

伊勢神宮の参拝に行った時も同じ現象が起きました。

まず一つ目は「体に悪いモノは食せない」。伊勢に行った時は2年連続で同じ現象が起きました。参拝後、自動販売機でちょっと炭酸系のドリンクを買おうとしたら「出てこない」。2年連続、で。結局「水」を買うことに。今回の富士山でもコーヒーが出たので飲もうとしたら一口も飲まずに「こぼした」。結局持参したお茶を飲んだ。

そして、これはどうゆうことなのだろう?と不思議なのですが・・・・。

どう書いて良いのか分からないので、漠然と書きますが。

高次のエネルギーに満ちているところに行くと、低次のコト・モノが不快でたまらなくなるのです。私の場合、「繋がる」という動作は勝手に作動してしまっています。伊勢神宮や富士山などはまさに「んとね~」と言いたくなる様なたおやかな、そして荘厳なエネルギーに満ちています。そこに・・・・「ヒトの想念」も同時に繋がってしまうと「不快」極まりないのです。

ツアーの「案内人」と称してガイドがつくのですが・・・・なんとも言えない・・・「ヒト」そのもので・・・・かなり辛かったです。かつてなら「聞かないといけないのかな」と我慢してガイドを聞いていたことでしょう。しかし・・・限界ヨロシクを経験した私は我慢しませんでした。席を離れ一人富士山を眺めていました。

酷評となってしまいそうなので細かくは書きませんが・・・・一言。

「富士山を愛するならば‘富士山を眺める時間‘を作ってさし上げるのもあなたの出来ることですよ。‘お土産を買わせる事‘‘こうゆう歴史があるから富士山は素晴らしいと定義付けること‘は必要ないのではないですか?」

そこに在るだけで素晴らしい。ヒトが何を言おうとヒトの歴史がどうあろうと、ただただ美しいのに。・・・・目に見えること、ヒトの道程だけが素晴らしいということに終始した結果・・・・ほとんどのヒトは「ガイドのお話を聞き、お土産を買う」ツアーでしかなくなってしまっているのです。少しだけ・・・・さみしくなりました。

不思議です。とても格安でこのご来光ツアーは開催されています。海外旅行で言えば「なんのガイドもなく」開催されるほどの格安さです。しかし・・・・富士山では、その格安だとこの「お買い物ツアー」となってしまうのです。本当なら「バスで行って帰って」だけで「あとは勝手にしてね」みたいになるはずなのに・・・。う~むむむ。残念!

でも、ご来光は美しく、富士山も美しく。伊勢とはまた違った荘厳さがある素敵な場所でした。個人的な探求として「高次のエネルギーが満ちているところで低次のエネルギーを察知しない方法」を検討中。あの不快さはちょっとつらいから。

伊勢では「ふわぁぁ~」と言っている間に、どんどんその不快さから血の気が引き・・・・顔色不良、になっていました。だから参拝する時は一緒に行っている友人でさえも私の側から離れてもらいます。

自分で意識的にしているのではないので・・・・どうしたらいいのかは分かりません。この勝手にいろいろなものに繋がってしまうのも「私」なので探求開始です。せっかくの美しい素敵なエネルギーの体感時間なのに「ヒトと一緒」だととてもツライ。これをどうにかしたいものです。素晴らしい体験とどうしようもない感覚とが同時に襲ってくる。自分がばらばらになりそうな感覚です。でも、一人になり素晴らしい体験だけにするとなんとも言えない心地よさが溢れます。「よきかなぁ~」と。

いつかヒトと素晴らしい体験をシェアできたら素敵です。

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旅行

先日家族旅行をしてきました。梅雨時期にも関わらずまずまずな天気であいかわらず忙しい楽しい旅行でした。

スケジュールは

8:00 出発→8:40待ち合わせ→10:00河口湖到着→お昼ごはん→11:00天上山(かちかち山)展望台とアジサイ散策で下山→河口湖遊覧船にて周遊→姪がスワンボートへ(ふらふらの酔っ払いスワンになっていた 笑)→14:30ハーブフェスティバルへ行くも混雑していて駐車できずホテルへチェックイン(湖南荘 泊)→屋上の足湯につかる→昼寝→17:15温泉入浴→18:30夕食→20:00花火大会が部屋の目の前で開催 観賞→21:00姪っ子たちとゲームコーナーへ(姪はコイン10枚から100枚に増やし・・・大人たちでやっとの思いで消費!)→22:00就寝

3:00起床→3;30「富士山5合目 ご来光ツアー」へ出発→4:35ご来光参拝(4分ほどだけ太陽現る)→ぼんやりと富士を眺める→5:40富士山出発→6:30ホテル着→朝風呂へ(ようやく富士山を下界から眺める)→8:00朝食→9:00ホテルチェックアウトし、ハーブフェスティバルへ→「与 勇輝」の作品を鑑賞→お土産タイム→11:30「石ころ館」にて姪がネックレスを創作体験(じじ居眠りタイム:「ねぇねの結婚式でつけるの!」とのこと・・・つけるチャンスがなかったらごめんね 笑)→河口湖出発→御殿場で昼食→帰宅

どこかの旅行ツアーばりのスケジュールで・・・楽しくも多忙な2日間でした。

富士山はあいにくもやっていて下界からはほとんど見ることができませんでしたが、ご来光ツアーにて5合目から頂上を眺めることが出来ました。

土曜日曜に観光地メッカに行くことなどほとんどないので御殿場でのヒトの多さにはちょっとびっくりしました。不況というけれど・・・結構皆さん楽しんでいるようです。

お子ちゃまと過ごすと若返ります。なんのてらいもなく「たのしい!」「うれしい!」「なんだか分からないけどえへへ~」みたいなお子ちゃまエネルギーはこちらもうふふ、となります。どこからそんなに元気が出来るのだろう?というぐらい元気で大人はついていくのが大変!笑 です。いつまでも純粋でいてください。

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アチューメントについて

ここで、少し「アチューメント」についてを書こうと思います。

「チャネルを合わせる」「繋げる」「呼び込む」・・・いろいろな解釈が出来るこのアチューメント。それは、一体どうゆうことなのかを少し書いてみようと思います。

例えば、とても好きな芸能人がいたとして・・・その人のようになりたい!と、一生懸命洋服のセンスを真似てみたり、お化粧を学んでみたり、ダイエットをしてみたり・・・そうして、いつのまにかその好きな人と同じ様に輝ける自分を手に入れたりします。

それと似ています。

「クァン・イン」(観音)、「ミカエル」「ラファエル」「ウリエル」「ガブリエル」などなどとの「縁」を繋いでくれるのが「アチューメント」と言われています。

「クァン・イン」のエネルギーである「慈悲・浄化・慈しみ」を自分の人生に取り入れるのです。そうすることで、自然と慈悲ということがどんなことなのか、浄化とはどんなことなのか理解します。そして、自らも「慈悲」となり、「浄化」を促すことができるようになるのです。

詳しく書いてしまえば、アチューメントをしなくても繋がることはできます。しかし、ファシリテーター(すでに繋がっているヒト、導管)にそれを誘導してもらうことですんなりといくのです。アチューメントをしなくても繋がりたい時は「あたかも自分がクァン・インになったかのように意識し行動してみる」のです。そうすると、「慈悲」に辿り着くまでに何を手放せばいいかが見えてきますし、そして手放した先に「慈悲」に辿り着く自らを自覚できます。それを自覚できた時すでにアチューメントは終了していると同じなのです。

私がエンジェルリンクを受けたのは、漠然とした「このエネルギーが私の人生にあったら素敵だな」ということと、「私が笑っていることで周りにもそのおすそ分けが出来るんだよな」ということです。「無償の愛」というローズオーラ、「ノンジャッジメント」というミカエル、「癒し」であるラファエル、「エンジェリックビューティ」というウリエル、「エンジェリックジョイ」というガブリエル・・・・それらが、様々な事を私に気づかせ、それを体現するようにサポートしてくれる。そして私がそれを体現することで、周りに人々にもそれらをおすそ分けできるのです。

イライラしている人の側に、ポンっと座るだけで私の周りに充満しているそれらのエネルギーで「なんだか、イライラしているのが和らいできたな・・・」となってくれる。こんな素敵なことはありません。何かに怒っているヒトの側にいるだけで、「ほよよ~そんなこと気にすることないんだよ」というエネルギーで満たしてあげることが出来る。そんな素敵なことはありません。

アチューメントやヒーリングは言い方は悪いですが「思い込み」からどんどん拡がってもいきます。ですが、「思い込み」と違うところは「与えられるものは全てギフト」というところです。もし、「思い込み」から入ったとしても、いずれ本当の意味で穏かなる自分に気づかされます。「自分にとって都合のいいカタチ」ではなく、です。自分にとって都合のいいカタチでそのエネルギーを「理解した」とか「繋がった」とすると、「自分も幸せ。他者も幸せ」に行き着くことは少し難しいでしょう。ですが、「ギフト」である本質と繋がるとそれはすんなりと行われます。

ためしに、ひとつアチューメントを受けてみると実感すると思います。

それをしていただいたときに、劇的に何かが変わるなんてことはありません。ですが、振り返ってみるとそれを受けた時から自分自身がそのエネルギーの元、変容していったのだということがわかると思います。「理屈じゃなくて」みたいな自然の流れの中で変容が起きているのです。

「もっとヒトに優しくしたいのにできない」という場合、それらのエネルギーをアチューメントしてもらうことで「優しくできない根本は何か」とか「どうしたら優しい目で受け入れられるのか」とかが気づきとしてバシバシ日常の中で起こってきます。そして、それらを学び、それらを実践していくことで「優しく出来る自分」を培っていくことができるのです。

自分の人生にどんなエネルギーを取り入れたいか、という視点でアチューメントを捉えてみると分かりやすいかもしれませんね。

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エンジェルリンク②

エンジェルリンク(ラファエル・ウリエル)をしていただいて1週間・・・・。いろんなことが見えてきました。

まず、ウリエル。・・・たぶん私の人生に今まで上手く回っていなかった部分なのだと思うのですが・・・「エンジェリックビューティ」というエネルギーです。なんだか上手く説明できませんが「楽しむ」ってことでしょうか。私にとって、なのですが「楽しむ」=「エンジェッリクビューティ」であるようです。楽しみ、笑い、喜び=美しきもの、というエネルギーです。おかげさまで、「楽しい」です。「歓び」ではなく「喜び」です。ぬふふ・・・と思わず笑ってしまうような感じです。

そしてラファエル。これは本当に「先の道を照らす」「癒し」である感じです。今まで見えていなかった側面をたくさん気づかせてくれます。そして「気づく先にある癒し」を体感しています。「そこだったのか~」というような、ほんの少し視点をずらすだけで訪れる癒しは本当に心を穏かにさせてくれます。

例えば・・・最近、いろいろなことが「頭打ち」状態で「どこに向かって、何をすればいいのか」を見定めることが出来なかったのですが、「たぶんこうゆう方向だろう」と感じていたことが実は「すでに行っていること」であると気づかされました。エネルギーを通すことや導管となること、リーディングやヒーリング・・・これらをどうしていいか分からずにいました。別にサロンを開きたいわけでもないし、そもそも「どうぞご自由に」と感じているのでわざわざ自分でそういった場所を設けるつもりもなかったのです。ですが、ではどうしたら私が持ちえているものを出せばいいのだろう?と頭打ち状態だったのです。

ですが・・・「すでに行っている」ということに気がついたのです。例えば患者様との触れ合い、友人や仲間とのふれあいの中で私はすでにヒーリングを行っていて、リーディングも些細な会話の中からも行っている。(チャネリングも含む)

リーディングに関しては「私はサイコメトラーか?」と笑い話にしたぐらい看護記録やカルテなどをリーディングしていたのです。「そこで一体何が起こり、なにが余白としてあるか、そしてなにが必要か、アクションとして何を行うか」などなど・・・。会話の中でそのスピリットのチャネリングをし、必要なヒーリングを行ってもいたのです。看取る、ということもそのひとつでした。

「すでに行っている」ことを「これからしなければ」という視点で見れば「頭打ち」となるのもうなずけるのです。

上記のはひとつの事柄ですが、いろんなことがそういったカタチで気づかされています。そして、それらを見ることで、「ではどうするか」も見えてきつつあります。

ミカエルとは違ったなんというか・・・「面白い」エネルギーです。

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エンジェルリンク②

今日はエンジェルリンク第2弾として「ラファエル」と「ウリエル」を受けてきました。

いつもそうなのですが、このリンクを受けることを促されるように物事が流れていたので、ようやく一段落、というような感じです。予約を入れるとさらにはっきりとそこへの道筋が通るので「ほぉ・・・これがラファエルかぁ」とか「これがウリエルかぁ」と理解できます。

前記事などと繋がっているのですが、「私を主張する」ことが私にとっての「癒し」であることがメインに気がつかされたことです。つい先日は患者様の申し送りの時に「もう、限界ヨロシクです」と患者様の様子を伝えたのですが、つまりはそれすらも私の内なる声が「もう限界ヨロシクです!」と言っていたのだということです。「もう、いいかげん主張しなさい。あなたは限界ヨロシク、ですよ」ということを教えてもらいました。

そして、それに気がつき「ではどうするか」と変容していくのがラファエルの癒しであるのです。ウリエルは「審美眼」、「なにが本当の美しさなのか」ということを分からせてくれるエネルギーです。上記の件で言えば、自分が限界ヨロシクな状態なのに、さらに他者のために身を削ることは「美しくない」ということらしいのです。「あなたも幸せ、他者も幸せ」が本当の美しさなのでしょう。

リンクのアチューメントをしていただいている時に私やファシリテーターの方が感じたのは、ラファエルは「なじんでいた」という事と、ウリエルは「きれいな感じ」というイメージでした。面白かったのはウリエルは最初、大工道具や日曜大工道具を入れる「赤いブリキ缶」のハコを抱えていました。私は「さすがにもうちょっと美しいのにしてくれると嬉しいです」と伝えるときれいなピンク色と赤い色のハートのハコを手渡してくれました。さらに四角いハコを受け渡されました。一体、これからの人生でそのハコから何が出てきてくれるのかと、とても楽しみです。(象徴としてラファエルは「たいまつ」、ウリエルは「ハートの小箱」を手渡しにやってきてくれるといわれています。ヒトによって形やエネルギーは違うそうですが・・・)

セラフローズオーラとミカエル、そして今回ラファエルとウリエルとの縁を繋いでいただきました。次回はガブリエルです。ミカエルをアチューメントしていただいてから様々なことが整理されて、そしてラファエルに私にとっての癒しとは何かを教えてもらい、ウリエルに本当の美しさとは何かを教えてもらう。そしてガブリエルは「歓び」とはどうゆうことなのかを教えてくれるのです。ローズオーラという「無償の愛」を根底にして。

ガブリエルは象徴として「受胎告知」ということも言われていますから、ファシリテーターさんに「たぶんこれからミカエル、ラファエル、ウリエルでいろんなことが明確になり、そしてガブリエルのエネルギーで『あなたの歓びとは』という『告知』を受けるのでしょうね」と教えていただきました。なるほどねぇ。その告知を受けるためにミカエルやラファエル、ウリエルが私にいろんなことを気づかせてくれるのです。

いつごろガブリエルに会えるのかとても楽しみです。

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そこか・・・。

ここ1ヶ月ほど夜勤ばかりの生活でした。

今までになくかなりのハードスケジュールでした。そのことから学んだこと。

今までいくらハードでも「仕事だから」とこなしていました。ですが、最近どうもそうではないらしいという事が分かり始めました。以前の記事でも書いたようにカルチャーショックは結構あるのですが、この仕事に関することでもあったようなのです。

よくよく聞いてみると周りの人たちは「これはキツイ」とか「こうしてほしい」という希望を勤務希望を出す際に申し出ていたそうなのです。常々それは分かっていましたが、「仕事だしそんなわがままはどうなのだろう」と思っていたので私は、ほとんど希望は出さずにこの6年を過ごしていました。

・・・ところが、この4月期に入り人事異動や様々な流れの中でどんどんハードになっていくのです。たとえば、他のヒトが「これはイヤ」と言ったことが何も言わないヒトに回ってきていたりすることが顕著なのです。もちろん人員の都合もあるのでいたしかたないのですが、「その業務を行えるヒト」も人事異動などで減少したため、残った人々でそれをこなさなければなりません。しかし、その残った人々の中で「私は嫌」と宣言されてしまえば、何も言わないヒトにその仕事が回ってくるのは当然です。ヒトが少なくなっても業務は同じ容量あるわけですから、回ってくる量もぐっと増えるし濃くなるわけです。

それで学んだこと。「主張しよう」です。

本当に些細なことなのですが、「勤務希望を出す」ということでさえもカルチャーショックが伴うのです。私までも「それは嫌です」とか言ってしまえばではどうやってまわしていくのだろう?ということから「やるしかないじゃん」と今までこなしていたのですが・・・「言ったもの勝ち」みたいなことはさすがに疑問が残るのです。しかも、それらを引き受けてこなしていることで私が出来るはずの事に少なからずキャパオーバーが出てきてしまうのは事実。そして「私は嫌」と宣言したヒトは安穏とマイペースなのです。

かなり「いいのかなぁ・・・」と感じながらも、今回の勤務希望では「ちょっとこれはキツイです」ということを添えて出してみました。私的にはドキドキものです。私が嫌といったばかりに他のヒトがキツイことになるのもどうかと思うからです。

そうしたら・・・「ごめんね。来月からは少し楽になると思うから・・・」と言っていただいたのです。・・・・ほぉ・・・そうか、言ってもいいのか、ということを学べたのです。

自分では別に「私がきつい仕事をすればいい」という意識で、希望を言ったりできないわけではないとしていたのですが、ヒトがそれぞれ自分はどうしたいか、を主張することによって様々な譲歩や調整は図られるものなのだと分かりました。

「自分をもっと大切にしましょう」とも繋がっているのだろうな、と感じる学びでした。

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長い間の疑問

なぜ「気づくモノ」と「気づかぬモノ」がいるのでしょうか。

今大きな「流れ」が起こっているのは「全てのモノ」に、なのですが・・・・「気づかぬモノ」「気づくモノ」が在ります。

そしてさらに「気づくモノ」にも深淵に「気づくモノ」と「気づかぬモノ」が在ります。

もちろん気づかぬモノでも変容は始まっていて進んでいます。

しかしどこを「到達点」にしているのでしょうか。

自覚しうる「意識」の領域で行動を起こすことを促されている人々も多くなってきています。けれどあまりに「幼い」領域であることもしばしば・・・・。

意識していようがしていまいが、進んでいてたぶん同じ様に変容していっていることでしょう。

では「気づくモノ」は一体「何を」すればいいのでしょうか。

自覚しうる意識の領域で「自覚」すると変容は「明らか」に進んでいきます。それを促すことでしょうか。

ここで疑問が浮かぶのです。気づかないままで自覚しないままでも変容は行われています。それを「自覚する」ことへの意義がよく分からないのです。スピリチュアルの大きな流れの中で「自覚しましょう」という一定方向へ促されている風潮もありますが、それは「何を」目的としているのでしょうか。「自覚したほうが楽だよ」ということなのは自分自身の経緯を見ても分かります。

それぞれのスピリットの自由意志の元「気づくモノ」「気づかぬモノ」が在ります。

多くのヒーラーや様々なメディスンたちは例えば「サロン」を開き、「気づきつつあるモノ」「気づくモノ」に対する門戸を開いています。では、「気づかぬモノ」への門戸は誰が開くのでしょうか。もちろん、そのヒーラーたちやメディスンたちと関わっていった人々が散らばり拡がっては行くのでしょう。

では「幼さ」は?

全ての事柄、事象、出来事は「そのスピリットに見合った」領域で起こります。

時々出会うヒーラーとはまた別の役割を担ったヒトは必ず同じ様な「色」をしています。顔色というか・・・・。しかし、そういったヒトは多くはすでに「センセイ」と呼ばれる地位を得ていたりします。「スピリット」と「自我」で繋がりがどういったコードになっているかは分かりませんが・・・私は「不健康」と感じるのです。上手く回っていないな、と。ですがその人々に「教えを請う」ているのです。

本当の意味で「輝いているヒト」はいます。そういった人々と出会えるように多くのヒトが選択して行って欲しいと願わずにはいられません。

極端に書いてしまえば「地球上での概念」を手放せずに「ヒト」であり続けることに必死で「執着」しているヒトは顔色が悪いです・・・・・。

そうゆうのはどうしたらいいのでしょうね。

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