終末の映画
映画が好きなのでよく観るのですが・・・、ハリウッドなどに多いいわゆる「終末映画」。この前エヴァを観にいった時にも予告編が上映されていました。「2012」です。
今日もテレビで宇宙人はいるのか、とか2012年に何が起こるのか、とかやっていました。アセンションもそうだしマヤ暦でも終末については談義されています。
・・・・結局は・・・「人類にとって」なんですよね。今までの地球の歴史を振り返ってみても、何度も生命体の代替は行われてきているわけです。そして今回こそ「人類」なのではないか、というのが概ねの主張どころです。
「地球が静止する日」というキアヌ・リーヴス主演の映画も観ましたが・・・・かなり、がっかりな映画でした。「人間には代わるチャンスが必要なんだ」っていう理由で「滅亡」はいったん中止されるという最後・・・・は?ていうかんじでした。結局人類側のエゴばかりなんですよね。「宇宙にとって人類は・・・」という理由で物語りは始まるのに、結局「人類のために」という最後。宇宙のために、という大義名分はどこへやら・・・・・。がっかりな感じでした。
「終末」論議・・・・。そんなに「罪業意識」を持っていてどうするんですかね。「人類は滅びるかもしれない」と考えるってことは「滅びるべき存在だ」とも言えるわけです。自分たちが生きていることで何か「不都合がある」という考え方です。粛清されるべき存在であるから「終末」が起こりうる、っていう感じでしょうか。でもそれって罪業意識、ですよね。
何かを犠牲にしながら命を生きることになぜそんなにも罪業意識があるのでしょうか。そもそも、以前にも書いたようにこの地球では「他者を食す」ことで「生きる」のが理です。それに罪業意識を持っている。
だったら・・・・「おかげさま」とか「もったいない」とか「慮る」とかをもっと自覚すればいいのに。何かしらのおかげで今自分が生きていられることを自覚しないから罪業意識が積み重なってしまうのではないかなと感じます。「ありがたいなぁ」と感謝することで全てが変わってきます。罪業意識も手放すことが出来るし、終末論に恐れおののく必要もなくなる。
人類が滅びたとして・・・それがなんでしょうか?それが地球の歴史として時の中に過ぎ去っていくだけのこと。それでも地球はここに「在る」。それが地球です。
終末映画を観ると思います。「何を促すためにこれを作成するのだろうか」と。
「感謝すること」を気づかせるために、あのような危機的な状況までをもビジュアルにしないと人類は「感謝すること」も分からないってことなんだろうな、と。
そして、その一方で「なんとかなる」という、いまだに人類の力で地球をどうにかできると思っている傲慢さも感じます。古代の時代のように今ほど人口もなく、モノや様々な便利なものもなく生きていた時代に今の人類は生きていくのは無理なのでしょう。「おかげさま」というココロ(目に見えないモノへの畏怖)もなく、「地球上で一番」という傲慢さばかりを持ち続け・・・・それでは、地球はボロボロになるしかありませんからね。
好きなように生きて、そして地球はその因果により変容していきます。ですが、それさえも「それが地球の歴史」であるのですね。そこに「終末」・・・「人類の終末」があろうと、それは地球にとってはただの時の流れの中でのこと。
「人類が滅びちゃうから地球を大切に!」っていう表現が私は好きではありません。


最近のコメント