では、感じてみるってどうゆうことかをちょっと書いてみようと思う。
簡単なのは、例えば何かの本で「菩薩様」と「如来様」というように2種類の存在を選んでみる。菩薩様でも様々な名前の方がいるのでその中の一つを選ぶ。如来様もそう。
だいたいそこには「説明文」的なことが書いてあると思う。「この菩薩様はこれこれこうゆう仏様です」みたいに。
その文を読んでみて「はじめに」思ったことやじわっと感じたこと・・・それがいわゆる「感じる」こと。
その文を理解しようとあれこれ考える前に出てくる「感じ」がそうである。
二つの文を読み、その違いを感じてみると「あれ?同じく文章として読んでいるのに印象が違う」ということがわかると思う。
「阿弥陀如来」の説明文を読んで「あぁ~こんな仏様がいたら嬉しいなぁ」と感じるのに対して、「不動明王」の説明文を読んで「こわいなぁ」と感じる。
これこそがエネルギーを「感じている」ということそのもの。
「ただの文章読んだ感想じゃないの?」と思うかもしれない。
でも・・・言葉もまた「言霊」であることを知れば「感想」もまたエネルギーの一端であることがわかると思う。
それに「あぁ~こんな仏様がいたら嬉しいなぁ」と思っている・・・つまり「そうゆう仏様がいることを想像している」行為になる。
これが「繋がる」ということのゲートのようなものなのである。
「あら呼ばれた?」的に向こうも必ずエネルギーで繋がってくる。
「想像する」という行為は「カタチないモノの世界」の扉なんだな。
「想像する」ということは目に見えないでしょ?
・・・こうして書くと「それじゃあ誰にでもできるんじゃん」と思うだろう。
そうなのである。
できるのである。
しかしほとんどのヒトは「そんなことあるわけない」とか「そんな簡単なはずない」とか「いるわけないから」とかということで自分が感じていることを信じていないのである。
というよりそんな簡単なことであるということをただ知らないだけであるのだ。
「感じてしまったら怖い」とか「目に見えない存在たちがいるなんて」とかというおそれで信じたくないヒトも多い。
シンプルなのだ。
ただ素直に感じればいいだけ。
「目に見えるもの」だけですべてを理解しようとしても、相手がどうしてそうゆう行動をしたのかは「想像」するしかない。この行為でさえも感覚の一部なのである。
時々感じないだろうか?
行動的にはとっても理解できない表現の仕方なのに「あ~この人本当は優しいんだろうな」と感じたり、反対にすごくいろいろしてくれるのに「???なんだか無理してないか?」と感じたり。
これはその人の行動だけではなく真の部分を感じているからなのだ。
だから意地悪な人がいい人ぶっても意地悪さは感じてしまったりする。
「天」もこうしたシンプルさで感じたりコミュニケーション取ったり、繋がったりできるのである。
ただ、多くの(ほぼすべてだと思うが)天の存在たちは「人間」ではないので、私たちの事情なんておかまいなし、というか・・・物質的価値観で存在していないので、彼らの「答え」はややこしい。人間的価値観ではなくもっと漠然としたものが多いのである。
だから「理解」するには少し時間はかかると思う。
私もいまだに「なんのこっちゃ???」と感じることが多い。
サードアイは誰しも在る。それを使っているのかどうか、ともいえる。
「感覚人間」は目に見えるものと同じように、目に見えない感覚も物事を理解するときに使用している。
想像して「なんだかよく分からないけれどそんな気がする」というものと「行動」をともに同じものとして情報として扱っているのである。
感覚を使っていなかったり、重要視していない人は「なんだか分からないけれどそんな気がする」という部分を「理屈」で「証拠ないしな」と信じないということ。
この「感覚」に関しては様々なものがあるし、慣れるまでに、信じきるまでにちょっと時間はかかる。
でもきっと、やってみると「こんなことだったのか!」と驚くと思う。
・・・では「高次の存在」とはどうだろうか?という部分をちょっと書いてみる。
簡単に書いてしまえば「高次」であればあるほど、「誰もが感じることが出来るもの」あるいは「共有することが出来るもの」であると考えてもらうといいかもしれない。
例えば、日本の埼玉県のある田舎町で「しか」通用しないようなものは「高次」とは言わない。
高次なものは世界中であろうとギャラクシーであろうと万物に通用するものなのである。
人間社会で言えば、世界中の誰が繋がっても大体は同じような感覚を覚えるもの、と言えるだろうか。
こうして説明すると、分かりやすいと思うのだが・・・・「個人的な行動まで指示してくるようなもの」はいわゆる高次でなく人間的だと思わないだろうか?
人間対人間でのコミュニケーションならば当たり前の話であるが、これが目に見えない存在、となると・・・・・たとえばアセンデットマスターでもある「キリスト」と繋がったとしよう。
キリストと繋がっている、と自分では思っても、「答え」的なところが実に具体的で「え?キリストってセブンイレブン行くの???」みたいなこと感じるようなら、それはキリストではなく、キリストのエネルギーを携えているご先祖様だったりするわけだ。あるいは「キリストのエネルギーはこんな感じよ」って教えてくれているご先祖様だったりする。
これもいわゆる「慣れ」であると私は感じている。
私もいまでも時々読み違えるときがある。
「ミカエル」と思っていたら「ガブリエル」だった・・・みたいな。
この「齟齬」を生んでしまうのは「エゴ」だったり、価値観の狭さだったりする。
「理解」するにはある程度の理解も必要だから。
「一生懸命いろいろサポートしてくれているけどあなたはだあれ??」と感じることも多い。
そうゆう時はエンジェルカードやアセンデッドマスターカードでズバリ聞いてみる。
「あなたは誰ですか?」と。
・・・こうして、いろいろな存在たちとコミュニケーションをとってみるのである。そして、時間をかけてその存在の特徴や本質的エネルギーを知っていくのである。
一度「あ、このエネルギーはミカエルだ」と理解するといつでも繋がることが出来るし、自分からも天からもアクセスしあうことが容易になる。(これをカタチとしたのがエンジェルリンクでもあると思う)
必要なときは呼び出したりお願いしたり。反対に「今あなたにはミカエルがサポートに入っているよ」って時は自然と分かるようになる。
・・・書き出したら止まらない感じだが・・・・面白いのでお試しあれ。