変換機

私みたいなタイプはいわゆる「変換機」のような役割である。

「サポートしてくれている存在たち」が一体何を言いたがっているのかを変換して伝えるのがその役割である。

多くのヒーラーもそうである。

チャネリングやリーディングは「クレアコグニザンス」=「察知する」、「クレアオーデェンス」=「透聴する」、「クレアボイアンス」=「透視する」・・・という感覚を使用する。

「天との導管」であるということ。

レイキは「エネルギーの導管」である。

なかなかすぐには天が何を伝えたがっているのかや、どんなことをサポートしてくれているか、あるいは今自分はどんなテーマと向き合っているかなど分からない場合がある。そうゆう時にはチャネリングが出来るヒーラーさんに会いに行ってみるといい。

反対にエネルギーを感じてみたかったり、エネルギーで何かをしたいときにはエネルギーヒーリングをしているヒーラーさんに会いに行けばいいのである。

そしてもし、自分でもそれをやってみたいなら前述しているように「感覚」を感じてみることから初めてみればいい。あるいはエンジェルリンクや様々なアチューメントでそのエネルギーとのコネクションを繋げてもらえばいい。

エネルギーの導管になりたいのならレイキをアチューメントしてもらえばいいのである。

時間はかかるかもしれないが、自分でできるとかなり楽である。

なぜなら、必要なときにいつでも活用できるから。

自分のメンテナンスに使用してもいいし、自分の親しい人にやってあげてもいい。

自分がどんな「感覚」が一番相性がいいかもいずれ分かってくる。

私は「言葉」として「勝手に話してしまう」いわゆる「いたこ」的な役割。

つまりミディアム。

そしてエネルギーとの交流、メッセージなどを伝えたりするメディスン。

ヒトによって何が出来るかはそれぞれであるから、それらを探していくのも楽しい。

得意分野を探す・・・みたいなとこ。

この感覚だけでなく、「嗜好」的な側面で眺めることもできる。

「賢者的」であったり「魔法使い的」であったり、「エルフ的」であったり・・・様々な得意な分野や嗜好でそれらを分類しているところもある。

私は黙々とこんこんと探究してしまうのはタロットで言えば「隠者」がそれを現している。

「真理の探究」をする隠者。(それを伝える相手を探している、とも言われる)

「そんな何の得にもならないことを・・・」と言われるようなことをこんこんと探究するのはただ単に「楽しいから」ほかならない。

反対に言えば、それが出来れば幸せだってことでもある。

世の中にはまだ数はそうは多くはないけれど、でも案外いるので自分と相性のいいヒーラーさんやサロンを探してみると面白いかもしれない。

扱っているエネルギーの違いや得意分野、あるいは感覚などで相性のいいヒーラーさんと出会うことは「もう一人の自分」と出会ういい機会になると思う。本当のあなたを引き出してくれるから。

そして、自分でもそれがしたくなったら今度は「教える」ことを得意とするメンターやティーチャーを探すといい。変容に必要な叡智を教えてくれる。

自分だけでなく、ゆったりと様々なサポートを受けて豊かな人生を歩むのも楽しいのでお試しあれ。変換機はけっこうたくさんいると思うよ。

天②

では、感じてみるってどうゆうことかをちょっと書いてみようと思う。

簡単なのは、例えば何かの本で「菩薩様」と「如来様」というように2種類の存在を選んでみる。菩薩様でも様々な名前の方がいるのでその中の一つを選ぶ。如来様もそう。

だいたいそこには「説明文」的なことが書いてあると思う。「この菩薩様はこれこれこうゆう仏様です」みたいに。

その文を読んでみて「はじめに」思ったことやじわっと感じたこと・・・それがいわゆる「感じる」こと。

その文を理解しようとあれこれ考える前に出てくる「感じ」がそうである。

二つの文を読み、その違いを感じてみると「あれ?同じく文章として読んでいるのに印象が違う」ということがわかると思う。

「阿弥陀如来」の説明文を読んで「あぁ~こんな仏様がいたら嬉しいなぁ」と感じるのに対して、「不動明王」の説明文を読んで「こわいなぁ」と感じる。

これこそがエネルギーを「感じている」ということそのもの。

「ただの文章読んだ感想じゃないの?」と思うかもしれない。

でも・・・言葉もまた「言霊」であることを知れば「感想」もまたエネルギーの一端であることがわかると思う。

それに「あぁ~こんな仏様がいたら嬉しいなぁ」と思っている・・・つまり「そうゆう仏様がいることを想像している」行為になる。

これが「繋がる」ということのゲートのようなものなのである。

「あら呼ばれた?」的に向こうも必ずエネルギーで繋がってくる。

「想像する」という行為は「カタチないモノの世界」の扉なんだな。

「想像する」ということは目に見えないでしょ?

・・・こうして書くと「それじゃあ誰にでもできるんじゃん」と思うだろう。

そうなのである。

できるのである。

しかしほとんどのヒトは「そんなことあるわけない」とか「そんな簡単なはずない」とか「いるわけないから」とかということで自分が感じていることを信じていないのである。

というよりそんな簡単なことであるということをただ知らないだけであるのだ。

「感じてしまったら怖い」とか「目に見えない存在たちがいるなんて」とかというおそれで信じたくないヒトも多い。

シンプルなのだ。

ただ素直に感じればいいだけ。

「目に見えるもの」だけですべてを理解しようとしても、相手がどうしてそうゆう行動をしたのかは「想像」するしかない。この行為でさえも感覚の一部なのである。

時々感じないだろうか?

行動的にはとっても理解できない表現の仕方なのに「あ~この人本当は優しいんだろうな」と感じたり、反対にすごくいろいろしてくれるのに「???なんだか無理してないか?」と感じたり。

これはその人の行動だけではなく真の部分を感じているからなのだ。

だから意地悪な人がいい人ぶっても意地悪さは感じてしまったりする。

「天」もこうしたシンプルさで感じたりコミュニケーション取ったり、繋がったりできるのである。

ただ、多くの(ほぼすべてだと思うが)天の存在たちは「人間」ではないので、私たちの事情なんておかまいなし、というか・・・物質的価値観で存在していないので、彼らの「答え」はややこしい。人間的価値観ではなくもっと漠然としたものが多いのである。

だから「理解」するには少し時間はかかると思う。

私もいまだに「なんのこっちゃ???」と感じることが多い。

サードアイは誰しも在る。それを使っているのかどうか、ともいえる。

「感覚人間」は目に見えるものと同じように、目に見えない感覚も物事を理解するときに使用している。

想像して「なんだかよく分からないけれどそんな気がする」というものと「行動」をともに同じものとして情報として扱っているのである。

感覚を使っていなかったり、重要視していない人は「なんだか分からないけれどそんな気がする」という部分を「理屈」で「証拠ないしな」と信じないということ。

この「感覚」に関しては様々なものがあるし、慣れるまでに、信じきるまでにちょっと時間はかかる。

でもきっと、やってみると「こんなことだったのか!」と驚くと思う。

・・・では「高次の存在」とはどうだろうか?という部分をちょっと書いてみる。

簡単に書いてしまえば「高次」であればあるほど、「誰もが感じることが出来るもの」あるいは「共有することが出来るもの」であると考えてもらうといいかもしれない。

例えば、日本の埼玉県のある田舎町で「しか」通用しないようなものは「高次」とは言わない。

高次なものは世界中であろうとギャラクシーであろうと万物に通用するものなのである。

人間社会で言えば、世界中の誰が繋がっても大体は同じような感覚を覚えるもの、と言えるだろうか。

こうして説明すると、分かりやすいと思うのだが・・・・「個人的な行動まで指示してくるようなもの」はいわゆる高次でなく人間的だと思わないだろうか?

人間対人間でのコミュニケーションならば当たり前の話であるが、これが目に見えない存在、となると・・・・・たとえばアセンデットマスターでもある「キリスト」と繋がったとしよう。

キリストと繋がっている、と自分では思っても、「答え」的なところが実に具体的で「え?キリストってセブンイレブン行くの???」みたいなこと感じるようなら、それはキリストではなく、キリストのエネルギーを携えているご先祖様だったりするわけだ。あるいは「キリストのエネルギーはこんな感じよ」って教えてくれているご先祖様だったりする。

これもいわゆる「慣れ」であると私は感じている。

私もいまでも時々読み違えるときがある。

「ミカエル」と思っていたら「ガブリエル」だった・・・みたいな。

この「齟齬」を生んでしまうのは「エゴ」だったり、価値観の狭さだったりする。

「理解」するにはある程度の理解も必要だから。

「一生懸命いろいろサポートしてくれているけどあなたはだあれ??」と感じることも多い。

そうゆう時はエンジェルカードやアセンデッドマスターカードでズバリ聞いてみる。

「あなたは誰ですか?」と。

・・・こうして、いろいろな存在たちとコミュニケーションをとってみるのである。そして、時間をかけてその存在の特徴や本質的エネルギーを知っていくのである。

一度「あ、このエネルギーはミカエルだ」と理解するといつでも繋がることが出来るし、自分からも天からもアクセスしあうことが容易になる。(これをカタチとしたのがエンジェルリンクでもあると思う)

必要なときは呼び出したりお願いしたり。反対に「今あなたにはミカエルがサポートに入っているよ」って時は自然と分かるようになる。

・・・書き出したら止まらない感じだが・・・・面白いのでお試しあれ。

「天」

いつも私が使う「天」とは一体何を指しているのか、をちょっと書こうと思う。

「目に見えないモノ」・・・と一言で表現するとこんな感じ。

それをある国では「天国」と称したり「極楽」と称したり・・・あるいは最近は「スターシップ」としてプレアデスやシリウスと称していたりもする。

それを総称して私は「天」としている。

天には超自然霊的な存在、アセンデッドマスターやエンジェルたちも入る。

分かりやすく言うと「サポートしてくれているすべての存在たち」とも言える。

日本の神様だってそうだし、仏教的な仏様もそう。

ヒト以外の、カタチあるもの以外の存在たちすべてを「天」と私は総称としている。

なぜなら、日本人だからとか○○宗教だからとかでくくりたくはないから。

みな同じ。

持っているエネルギーや解釈としての意味合いが違うということに過ぎず、みな同じであるから。

私たちは天と地の間に在る存在。

クラウンチャクラの先端は天に繋がり、アーススターチャクラの下は大地(地球)に繋がっている。これは細かろうとなんだろうとすべての人間がエネルギーで繋がっているのである。

肉体だけを見るとぽんっと地上に在るように感じるが、エネルギーで言えばみな天と地の間に在るのである。

「目に見えない」から「ない」とするなら、ない世界かもしれない。

でも目に見えない世界も「在る」とするなら、あるのである。

そのどちらの世界観を持って生きるかは自由である。

父を見ていると感じるのは「目に見えないモノ」を「ない」として生きたい、という部分。

「自分の人生は自分で決める」ということを強く感じる。

自分で把握していることで自分の世界を創り上げ、すべてを自分で成し遂げている、と感じたいのかもしれない。

それはそれでいいのだと思う。

でもちょっともったいないな、とも思う。

天を、「目に見えないモノ」を信じることは決して「自分の人生は自分で決める」ことが出来なくなることではないから。むしろ、「あなたはどうしたいの?」と常に私の自由意思を確認されるので、強烈に自分の人生を自分で歩んでいる実感がわく。

前記事で書いたように、私たちが嬉しがると天は嬉しいらしい。それが彼らの存在理由であるから。

父のような生き方でももちろんサポートは入っている。というよりそれがない人はいない。

いないならば、「もっと」コミュニケーションを取れると面白いと私は思う。

日本の神様は簡単に言うと「まかせなさい!」的な力強いエネルギーが多い。

仏様は「ほっほっほ」的な包むようなエネルギーと、不動明王のように力強く火や怒りのエネルギーで慈悲を伝えるものとで大体は分けられるように感じる。

日本的であるけれどこの二つのエネルギーは質感がかなり違う。

エンジェルはもっと「えへへ~」「うふふ~」的な呑気な感じ。呑気、というかほわほわした「歓び」のエネルギーに満ちている感じ。

でもセラフなどになるとかなり「コワい」。いくら想像しようとしても「ヒト型」では想像しえないエネルギーである。強烈なエネルギーであるけれど、本質的な根底を感じるには必ず通り過ぎる部分でもある。

フェアリーは「かわいい」感じ。

超自然霊は「かっこいいなぁ」とか言っちゃいそうなエネルギー。白銀の龍は特に美しい。一度つい呼んでしまったことがあるのだが「何か御用?」と言われ、「いえ、すいません。用はないんですけど・・・」と言ったら「何でもいいからひとつ願いを言って。そうしないと帰れないし・・・」とのこと。「じゃ、じゃあ小雨を・・・」といったら「わっしゃっしゃ~」と言って小雨をさらっと降らして帰っていった。

ユニコーンはちょっと凛々しい。そしてとっても優しい。

あとは自然的エネルギー。

「地球」はとにかく「母なる地球」という言葉がぴったりなエネルギー。ど~んとしていて、あたたかくもちょっと厳しい所もある。

そこに根付いている自然、木々たちは太陽の光を浴びると「嬉しいね」「嬉しいね」ってエネルギーを発する。雨が降っても「嬉しいね」「嬉しいね」って喜ぶ。

私もまだまだ細かいところまでは上手く説明できないし、アンテナもまだまだいろいろなことに左右されてしまうので漠然としてはいるけれど、「森」ぐらいの木々の集団が発するエネルギーはだいたいは感じることが出来る。

こうして「天」というものを説明してみると、たぶんなにがしかとか、どのエネルギーなら・・・みたいなところで「あ、これなら私もわかる!」というようなものがあるのではないかなと思う。エンジェルは縁遠いいけれど、仏様ならちょっと身近っぽいとか。

そういったモノたちとコミュニケーションをとってみると面白いのである。

何もかも自分で成し遂げようと頑張ることはいいけれど、もっとゆったりと生きてもいいんじゃあないかな、と感じるのだ。

人間ではどうしようもないことってある。

分かってはいてもなかなか出来ないこともある。

それらにちょっとだけサポートに入ってもらうと、今よりもちょっとだけゆったりと生きることが出来ると思うのである。

「いるなら証拠見せろ」とか言われちゃうと困っちゃうんだけどね。

あとは「信じる」のみ。

百聞は一見にしかず・・・という感じかな。

面白い実験(?)の方法としては・・・「すっごい楽しい!!って感じた時にもし曇っていたら‘青い空が見たいな‘と言ってみる」方法。

あ~つまんないな、とか思っているときよりも、「あ~楽しいな」と思っているときの方が繋がりやすい。そして空に雲があったら「青い空が見たいな」とか言ってみると叶っちゃったりする。ディズニーに行ったときには空がまあるくくりぬいたように青い空が見えていた。

エゴっぽく「なんで曇りなわけ?」じゃあなく「お空が見えたら私は嬉しいな」と言うのもコツ。

「今私は楽しい!でもお空が見えたらもっと楽しい!」みたいな気持ちで。

そりゃあ一瞬で雲がなくなるわけじゃあないけど・・・でも、青い空は出てくることが多い。

そして、もしお空が出てきたらそれに対して「あぁ、ありがとう。私はお空が見れてうれしいよ」と感謝する。・・・・こうすることで、「次回」も叶えてくれる率が高くなるような気がする。

「よ~し。試してやれ!」とじゃんじゃん雨が降っているようなときに試したりすると・・・やったことないから分からない。無理なお願いはしない主義なので。

「天」はいろいろな説明が出来る。

自分なりの天を探してみたり、感じてみたりすると面白いかもしれない。

大切なもの

お家が買えることが決定した。

滞っていたのは希望金額よりもかなり減額でローン審査の結果が出ていたからだが、今回満額でローンが組めることに決定した。

これまた嬉しい縁でいろいろな人が動いてくれていた。

最近感じるのは、周りのヒトビトをみてもそう感じるのだが、大切なことはそれほど多くないってこと。

「嬉しいな」「ありがとう」

ただそれだけでいい時もある。

「幸せになりたい」あるいは「幸せになってほしい」

ただそれだけでいい時もある。

けれど、ヒトはそこに様々なことを入れ込んでいこうとする。

「こうしてくれなければ」と。

まあ、「条件付き」になってしまうってことかな。

でも・・・その条件こそが「ヒト」なんだよなぁと。

嬉しいことされたら嬉しい、ただそれだけ。でも、その表現のカタチが自分の想像するカタチでなくても「お気持ちだけでプライスレス!」と「そう動こうとしてくれた根本の気持ち」に対して「ありがとう」としていればいいのではないかなと思うのである。

大切なその根本の愛に感謝することが出来れば、たとえカタチが変わっても、自分の希望通りでなくても愛の関係は繋がっていくのではないかと。

これまた、わんこの話。

テレビでそりを引くわんこが出ていた。そのわんこたちは「え~ドッグフードじゃなきゃいやだもん」とかなくて一日1回凍った魚を与えられていた。でも、とっても嬉しそうにそりを引くのである。

では、そのわんこがもともと日本の家庭で飼われていたらどうだろうか。

「え~魚が凍ったのじゃなきゃやだもん」というだろうか。

そうじゃないんだよな。

つまり「環境」「状況」「生きている場」によってエサのカタチは変わってもわんこはわんこで疑問は抱かないってこと。

ヒトはあらゆる情報源や「常識」などに振り回されてしまっている部分があるな、と感じるのである。

でも・・・きっと「自分」に立ち返ると本当に大切なものはそう多くはないし、ヒトと違うこともあると思う。でも、それが自分であるならそれを楽しめばいいのである。

今回はじめてやってもらった住宅ローン申請で私の生き方は「数字的には信用できないヒト」って初めは出た。だからこそ減額となった。

・・・数字???

まぁ社会的ルールでもあるのだろうし、「うちに迷惑かけないお客さん」的指針なのかもしれない。もちろんこれはなくてはならない線引きなのだけれど・・・でも結局は満額で決定した。・・・???ほよよ、とも思う。

まったく貯金もなく頭金もなく家を買おうとしていることに「無謀だ」というヒトのほうが多い。

でも、私が今まで大切にしてきたのはそこじゃあないもん・・・と。

そういった数字的なところに出ないし、貯金もないけどさ・・・でも、地球は美しいと感じる自分が私は好きなのである。

ヒトとはちょっと違う価値観で、ちょっと違うことを感じたり視たりいろいろしてしまう・・・生きるのは大変だし、適応していくのも大変だけれど、「あぁ~美しいねぇ」と景色を見て感じる瞬間に私は感謝してしまう自分が好きなのである。

理屈じゃないところで生きるスタンスが在る、ということに気づいていなかったときはかなり苦しかったけれど、今はずっと楽になって、むしろ大切にするところなのではないかな、と思っている。

大切なのは・・・カタチがどうであれ、「感謝すること」かな、と。

とても不思議なのだけれど、本当に歓んでいると天も答えてくれる、ということ。

「え?そんなに嬉しかったの?じゃあもっと叶えてあげる!」的にどんどんとサポートに入ってくれるようになる。

前に「どうして?」と疑問に思ったのだけれど、その時の答えは

「あなたが歓喜することが私たちを祝福しているということなのです」とのこと。

あ、そうなの??とその時はよく分からなかったけどでも・・・そうなんだと感じる。

関係性?みたいなところで。

歓ばせたくて仕方がないのである。天は。

だから現実的で自我的で現世的な側面でショックを受けていたりすると、私たち以上に天も悲しむ。「あなたを悲しませるために起こっているのではないのです」と一生懸命知らせようとしてくれる。

だから・・・・日常で起こる様々なことでヒトは傷ついたり、いらいらしたりしてしまうけれど、実は「お気持ちだけでプライスレス!」っていう視点で眺めると「あなたを悲しませるために起こっているのではないのです」ということに気づけるようになる。

愛したいなら愛しましょう。

ありがたいことならありがとうでいい。

大切なのはなんなのか・・・自分が何にこだわっているのか、それを知ることが出来たらきっと天はかなりのテンションで(笑)サポートに入ってくれる。また、それまでも入ってくれていたことに気づくことが出来る。

ヒトとのコミュニケーションも楽しいけれど、天とのコミュニケーションもかなり楽しいのでお試しあれ。

願いは叶う?②

お家購入の件で滞ったりする中でもやもやとした時間が訪れた。

前述したように様々な気づき、新たな発見なども手にした。

そのもやもやの中、「トラストユアバイヴ」というカードをひいた。

このカードは「あなたの感覚を信じましょう」ということをメインにしたカード。

「表面で起こっていることは深く考えずに、ただあなたの感覚を呼び起こすとどんな感覚を覚えるか見つめてみましょう」と出た。

これが気づきを加速するきっかけとなったのだが。

流れが停滞したとき・・・・新居のことを感じてみた。

・・・・・・我が家なんだよなぁ・・・という根拠のない安心感があった。

あと、「あぁ、あとは歓びだけの人生なんだぁ」というこれまた根拠のない安堵感があった。

たぶん、これがすべてなんだと思う。

「すべて順調!」の。

いろんなことがあり、関わる人々の思いや事情も絡んでいるとは思う。すべてがシンクロして顕現するのだから、私だけのためにこの時間が流れているわけではないことも理解している。この件で多くの人になにがしかのテーマが在るのだろう、とも。

でも・・・私だけの理由は「安堵感」と「歓び」でしかないのだと思う。

それを大切に育んでいかないとな、と思う。

長い長い豊かさのブロックを抱えたままだった人生に一区切りつけ、多くのことにありがとうと感謝しつつ手放し、新たなるスタートを切りたいと思う。

(・・・「過去を手放しましょう」と言われて、今の住居まで引っ越すことになろうとは思わなかったけど。PCぐらいで済まなかった訳らしい)

「豊かさ」とは私にとっては「受け取ること」みたい。

「貯金が山ほど貯まっている」とよく言われる。受け取れるものがたくさんあるのに、「いやこれぐらいで結構ですから~」とちょびっとしか受け取らなかった今まで。

受け取れるものは受け取ろう、と思う。

まずは、「受け取ることを自分に許可します」という意思表示は出来たような気がする。

はじめて遠慮も過剰な謙遜もなく受け取るのが2650万の新居か・・・・。どれだけ貯めていたんだろうか。

これからの人生、またいろいろあろうけれど、このスタンスは嬉しい新境地であるのは間違いない。

(・・・・こうやって、流れの中で結局自分で答えをつかんでしまうところが不思議である。結局は自分次第なんだよな、と。)

そこか!!→「豊かさのブロック」

特にここ数年ことあるごとに「豊かさ」へのヒーリングやメッセージを多く受け取っていた。

今年は前述したように自分へと還る年でもあったのだけれど、この「豊かさ」への部分もピークを迎えていた。

ブロック解放ワークを受け始めて、ついつい参加してしまうのが「冨・豊かさのブロック」について。長年この豊かさについては表に出てきていたので、あえて取り掛かってみた次第だ。

そして、がつん!とダイレクトに「冨と打ち出の小槌ワーク」を受けに行ってみた。

へとへとになった。

それを受けて2か月ちょっとたつ。

ようやくたどり着いた答えがある。

お家購入に関して停滞していた時期に、ある時ふと出てきた。

「買えないかもしれない」となった時、両親の落胆はなにげに大きかったように感じる。そして、「怒る」とかではなく「かわいそうだな」というエネルギーがきた。

・・・・ちょっと待て。

私はこうして両親を落胆させるために今回動き始めたのか?

否。

ちょっと待て。

何かがおかしいぞ・・・と。

あぁ、そうか・・・私のブロックはここだ!と。

「不幸な私でないと愛されない」ブロック。

両親は決して私の不幸なんて望んでいない。幸せであれと願ってくれている。

しかし、私は「不幸でないと愛してくれないんでしょ」というブロックを持ってしまっていた。

これは今世なのかさえも分からないし、いつからとかもわからない。(ブロックは全てのルーツからくるから)

・・・過去のすべての事象が理解できる。

どうして波乱万丈であったのか、いろんなことが巻き起こるのか。

もちろんそれらを経験したからこその今の私であるので避けることはできないことであったとは理解する。

今、この時、このタイミングで、このことを理解するために今までがあったのだろう。

そして、「夢を叶える」ときにはそれらが解除される瞬間なのだと。

「不幸で理不尽で不遇な私」・・・それらにほとほと疲れ切っていたのも事実。

なぜなら、本当は不幸でも理不尽でも不遇でもないから。

もうその理屈は手放されていくものなのだと。

で、ずいぶん昔の私ならここで「自分の何がいけなかったのか」とか「ではこれからどうしよう」とここから探求が始まった。

しかし、今の私はそこはすっとばしている。

「幸運で奇跡に満ち溢れている私を受け取ります!!」

ただそれだけでいいのだということを知ってしまったから。

・・・これが「ブロック解放ワーク」を受けた結果の私なのだと実感する。

「愛と冨は本質的に同じものです」ということが理解できる。

長年深く付き合いのあった友人との距離が出来始めたのもそこである。

以前、ばっさりと切らせていただいた縁も同じである。

「不幸で理不尽で不遇な私」が呼び寄せた付き合いは疲れ切ってしまうのである。

不幸で理不尽で不遇な私であるから、報われない愛をひたすらやってしまうし、会えばいつも文句を言うような出来事が起こったりする。

私は文句を言ったり、報われないなぁなどと思うために生まれてきたのではないのだ。

もちろん、反対に私がそうゆうブロックを抱えているおかげで、それに付き合う友人たちも「文句を言われるようなこと」をしてくれちゃうし、「報われない愛」を実践してくれちゃうわけで・・・・申し訳ないとも思う。彼らもまた、文句を言われるために、報われないでしょ?ってことをしたくて生まれているわけじゃあなく、みな幸せになりたいのである。(実際幸せだろうし)

このことに気がついてからずいぶんと流れが変わったし、気持ちの部分でも意志の部分でもかなり違う。

自分で言うのもなんだけれど・・・・・「慈しむ」ってことがなんとなくわかってきたように思う。

そして私のエネルギーが「慈愛」と言われるのもなんとなくわかってきたように思う。

なぜなら、このブロックを解放してしまうと「慈しみ」「愛する」しか残らないから。

このお家購入関連で様々な学びが起こっている。気づきもまたしかり。

「冨と打ち出の小槌ワーク」でも、1月のヒーリングセッションでも同じことを言われた。

「あなたは自然と強い繋がりがあり、もっと太陽の光や大気など森羅万象に感謝することが出来れば冨があなたのもとへやってくるでしょう」と。

これは「不幸な私」では辿り着かないのだ。

宣言してしまったら穏やかさに身を置くことが出来て、なにやらお家も購入できる感じになってきた。

アバンダンティア・・・豊かさの女神。

今強力にサポートしてくれてるのだろうな。ありがたや。

願いは叶う?

天は実に面白いはからいをするといつも感じる。

人間がいくら考えても思いつかないような最善のカタチと最善のタイミングでそれを叶えてくる。もちろん、そのオーダー元は自分のハイヤーセルフ(神域にいる自分と解釈すると分かりやすい?)なのだが、ハイヤーセルフと自我とのギャップはなかなか瞬時にわかるものでもなく、戸惑うことも多い。

自我に上る様々な願いや夢などはハイヤーセルフからのサインでもあるが、物質世界で生きている自我にとってなかなか理解がついていかないことも多い。

今回10月からマイホームの購入に関して動いている。

なんだかんだでようやく手に入るめどが立ってきた段階である。

動くきっかけもなんだか漠然としていたのが事実。私の場合、気がついたら動くようになっていた・・・なんていうことも多いのだが、いまだになぜあのタイミングで不動産屋さんへコンタクトしようとしたかは自分でも分からない。夜勤に行く前のほんの20分前に問い合わせメールを打っていた。でも、その動機ははっきりしない。後でとってつけたように理由づけはいくらでもできるが、イマイチ自分でもよくわかならないスタート時期であったと思う。

でも・・・たぶんタイミングだったのだと感じている。様々な私のあるいはハイヤーセルフの望む生き方やなにがしかのテーマのためには今動くことで最善なのだろうと。

流れはこれまたよく分からない流れである。

うまく行くと見せかけて滞ったり、できないと思ったのに叶いそうだったり・・・。

カードをひいてみると「すべて順調!」とか「今奇跡の最中なので待っててね」みたいな内容。でも、自我的なことをひいてみると「あんたの望みは叶わないから」的な答え。・・・・どっちなんだよ!!といらいらもした。

けれど、この1か月半を振り返ってみてみると、案外必要な時間だったように思う。舞い上がっているテンションでもなく、いったん「手に入らないかも」となったおかげで、手に入るとなった時の意外さやありがたさがずい分と違う。さらに、今の自分に何が足りていないかやこれからどういったことで自分の人生をプロデュースしていけるかなどをこの時間で眺めることが出来た。

自我的な部分で「あんたの望みは叶わないよ」と出たのも納得する。

今までの私が抱いていたビジョンや生き方として新居を手に入れても何も変わらないよ、ということだと理解した。

だからこその「新たなる自分」と辿り着いた。

フルスピリットで生きるということがどんなことなのか・・・実に面白い。

「自然」「地球」を味わい、楽しみ、慈しむ・・・そうゆうことのために願いは叶うのであって、それ以外のことではないということらしい。

不思議なのは私の中の整理がついていくほどに新居は手に入りやすい条件となっていった流れだ。

だから、これだけ時間がかかっているのは私の中の整理の時間であり、それが区切りつくタイミングで叶うということであろう。

「新居で私は何がしたいのかなぁ」と考えてみた。

・・・・単純に言ったら「魔法使いのお家」みたいな?かんじかな。

別にでっかい水晶おいて黒いマント着て・・・みたいなことでなく(笑)、「なんだかここにいると安心する~」とか「なんだかよく分からないけれど定期的に来たいとこ」みたいな場所にしたいなぁ、と。

「自然」というキーワードで、面白い合点がいったことがある。

たとえばメソッドや視点的な部分では「オーラソーマボトルヒーリング」はとても私自身楽しいと感じる。しかし、「学ぼう」と思うボルテージがなかなか上がらなかったので学んではいない。でも、ある本を読んでいたらうきうきしてきた。

「樹木」や「ハーブ」、あるいは「フラワー」、「クリスタル」というカテゴリーでのタロットやヒーリングがあるのである。フラワーバッチレメディもしかり、アロマもしかり。

そういったことでも今「自然」「地球」というところへと流れが来ている。

レイキのディグリーを開講するにしても「人間」ではなく、大いなるものへのコミットメントしているスタンスでやりましょう、と促されている。

私のエネルギーヒーリングはそもそもそこに起因しているし、チャネリングもそこへのコミットメントに終始している。

なので、新居は「ヒトがやっているヒーリングサロン」ではなく「魔法使いのお家」的なニュアンス。

面白いなぁ。

こうゆうところまで自我が追いつかないと契約までたどり着けないんだから。

住宅ローンとかいろいろ社会的な位置づけが変わるので、私的には「ヘヴンリーな生き方」から「里山に降りる」的感覚だったのに、実は「いや、あんた里で魔法使いやるんでしょ」みたいな流れ。

「里山に降りる」的感覚の時は流れが頓挫したから。

でも「いや、やりたいことするんだ~~!」的なスピ全開にしたら流れが動き出したから。

まぁ、まだ契約までいっていないのでどうなることやら・・・だけれど。

天は私に何をさせたいのだろう?といつも思う。

でも決まって帰ってくる答えは「あなたがあなたらしく幸せであること」。

ただそれだけなんだよなぁ~・・・と。

そんな愛を受け取るってとっても難しい。

大きすぎて、人間的価値観ではよくわかなくて、いつも戸惑ってしまう。自我が追いつかないのが事実。

周りの人はもっとわからないと思う。

でも、きっと時間がたつとわかることなんだとも思う。

おもしろいよ

私がおもしろいなぁ・・・と感じるとこ。

わんこを見ていると特に面白い。

うんこしている瞬間のわんこについて。

「うんこするうんこするうんこする」が80%、「散歩中」が10%、「ご主人様」が5%、「この匂いなんだ?」が5%。

そして、うんこし終わった瞬間のわんこ。

「うんこでた~」が30%、「散歩中」が20%、「この匂い!」が20%、「ご主人様」が10%、「ごはん」が20%。

次には「散歩中」が40%にまで跳ね上がる。

そしていつしか「歩く歩く歩く」が70%を超える。

わんこがかわいいのはこのシンプルさである。

人間視点で言えば「ご主人様」がこんなにパーセンテージ低いのか?と思うかもしれない。でも、そんなものです。もちろん、安心しているが故であるからわざわざ考えたりしていないってのもある。

「疑う」という行為がないのかもしれない。

「どきどき」「なになに?」とかはあるけれど。それは「起こるかもしれないこと」を疑っていることとは違うわけで・・・。

金魚はもっとシンプル。

「ご飯!」が70%、「寝る」が20%、「遊ぶ」が10%。

でもご飯が終わると「遊ぶ」が50%、「・・・」が30%、「寝る」が20%。

つまりなにも考えてはいない時間が多い。

魚介類は大体そんな感じ。

自然の「木」は、というと「育つ」が80%、あとは「受容」。

ただ、落葉樹の秋口は「枯らす」が60%、「貯蓄」が30%、そして「受容」。

シンプル。

クリスタルはその石の持つエネルギーの純粋な結晶なので100%。

ヒトが介在するればするほど、自然界のものは純度が低くなる。

あるいは作業過程が人工的であればあるほど愛度が低くなる。

ほうれん草は何をしてもほうれん草であるように自然のものは自然である。それを化学的にある物質だけを取り出し「これがほうれん草です」と言っても純度は低い。

成分的にはほうれん草かもしれないが、太陽からの恵みであるエネルギーははぎ取られている。ジャンクたるものほかならない。

純度が高いものを食せば食すほど地球のエネルギーをいただける。

取れたてのお野菜を食すことで、太陽のエネルギーや地のエネルギー、育みのエネルギーなどを得ることが出来る。

カタチだけ、成分だけで体に取り入れてもエネルギーは低くなってしまう。

まぁ、「肉体」だけのことを眺めていれば「食べていれば」的な視点となる。

あ、クリスタルについて。

クリスタルの活用の仕方。

よく勘違いしているヒトがいる。クリスタルのエネルギーを。

例えばそもそも慈悲とか慈愛とかをその人の本質のエネルギーとして持ち合わせていなのにアメジストを付けたとする。たぶん、違和感があったり、試練と感じることが多くなったりする。反対に慈悲とか慈愛を本質的なエネルギーとして持っているヒトがアメジストを付けると、場合によってはフラフラになるほど余計なものが寄ってくる。

クリスタルはエネルギー調整するにはとても強力なもの。

そのエネルギーに吸い寄せられるように目に見えないものは寄ってくるし、そのエネルギーで自らのエネルギー領域を満たすわけなので、本質的に持っていないエネルギーを身に着けるとちょっと違和感が出る。慈悲や慈愛を本質的に持っているにもかかわらずアメジストを付けるとエネルギー領域は慈悲と慈愛で満たされすぎる。(過ぎる、という表現で良いかはわからないが)すると、アメジストを持っていなくても慈愛であるのに「もっとよこせ」とか「もっともっと」というものを引き寄せすぎてしまうのである。

だから、クリスタルを選ぶときは「感覚」で選ぶのである。

感覚はどれをつけたらちょうどいいかを教えてくれるバロメーターだからだ。理屈ではない。

私のエネルギーは「慈愛」と表現されることが多い。自分では分からないが。なので、本来のエネルギーを発することが出来れば最良であるので水晶などをメインにする。余計なものを浄化してくれるし、本来のエネルギー領域をきちんと確立させてくれる。

クリスタルとも「縁」であるし、「タイミング」がある。

以前の私に必要だったエネルギーが、今もあっているとは限らない。流動的でギフトに満ち溢れている。

クリスタルは長い長い年月をかけて創り上げられたいわば地球の結晶である。どのような環境の中でも今までそのカタチを保ってきたエネルギーは素晴らしい。地球で生きていくうえでの先生のような立場かもしれない。

わんこや金魚、恐竜やクリスタル・・・どれもシンプルで邪気がない。

ヒトのようにあれこれと理屈を大事にはしないけれど、でも生きる上での大切なことを実践している存在だ。

そうゆう存在たちと触れ合うことはとても楽しい。

理屈なんてどうでもよくて・・・「うんこするうんこするうんこする」ってふんばっているわんこを見ると「愛しい!!」って感じる。

「ごはんごはんごはん!!」とばしゃばしゃしている金魚を見ると「愛しい!」って感じる。

ヒトも・・・・もう少しシンプルになったらいいのにな、と思う。

(ある意味自我に忠実なのもシンプルなのだけれど)

新しい自分?

今年は私にとって数秘で言うところの「9」の年。

「自分」というものと向き合い、来年からの「1」から始まりそこからの9年間を創り上げるための内省の年。清算されるべきものはされ、新たな可能性も見出す年。

そろそろ西暦では年末を迎える。

さて・・・今年は一体どんな年だっただろう、と振り返ってみる。

一言で言うと「過去を手放せ」という流れだった。

今まで顕在化していながらも手元に握りしめていた様々なことを「手放しましょう」と促された。また、それに伴って新たなものも可能性として現れはじめてきている。

「新たな自分」というのは今年の初めから始まっていた。1月に受けたヒーリングで本来のブループリントへと還り、そして8月にはフルスピリットアクティベーションを受けて「本来の」私へと還るようになっていた。自分で意図したわけではなく・・・受けたいものを選んでいったらそうゆう流れだった。

その経過の中で、PCも壊れ、長年付き合いのあった友人とも距離が出来始めた。周りの人間関係もずい分と数年前に比べて変わってきた。

そして、私自身も数年前に比べるとずいぶん変わってきたように感じる。

その変容してきた私自身のこれからにとって必要ないものは「手放す」流れとなっている。自分ではなかなか「もう必要ないもの」を選別するのは難しかった。自然と「あ、いらないや」とか「もう、勘弁して」とかという境地になり手放していく道のり。結構抵抗もした。「なんでこれを手放さなければならないの??」と理解できずにあがきもした。

けれど・・・結局は手放す方を選んでいる自分が今の私へと繋がっている。

探究を始めてもう6年近い。

それ以前からも言われていたのだろうが、あまり記憶に残っていないことが、この探究道に入ってからずいぶんと明確化した。

今年はそれがさらにはっきりとしたカタチで見え始めた。

キーワードは「自然」「地球」。

・・・なんのこっちゃ・・・??と。

「ひとつの惑星のようなエネルギー」と形容された私のエネルギー・・・。田舎暮らしを望む気質。穏やかさを好む・・・。「エネルギー」として世界を捉え、眺めてしまうスタンス。価値観。

はっきりしたことがある。

「ヒトを対象としていない」私という部分が在る、という事実だ。

それを自覚したのは2か月ほど前。

「地球を愛すればよかったのか~!!私はヒトを愛する、ヒトにヒーリングする立場ではないのか!!」と気づいた時の安堵感というか・・・解放感は忘れられない。

もちろんヒトを愛している。しかし、そこでは説明できない何かが私の存在を揺り動かしているのも長年の矛盾を呼んでいたのだ。

私は「地球を愛している」だけだったんだ・・・ということ。

そこに存在している様々な生物も人間も含めての「地球」という存在そのものを愛しいと感じていたんだ、と自覚したのである。

その発見のキーワードになったのが「恐竜」。

ディズニーで汽車に乗ったら恐竜がいた。

めっちゃ感動した!「うぉぉ~~恐竜だぁ~~!!」と。

そしてふと、デジャヴュ。

「あ~・・・・そうか。私は恐竜が草をはむはむしている地球を視て‘地球に生まれたい‘と願い、今こうして地球にいるんだ・・・」

と。

でも・・・生まれてきたらジュラ紀ではなかった。がびーーん!!みたいな36年間。

だから「人間」という生物を理解するのによく分からないことが多い。

お腹すいたらご飯食べればいいんだよ~的なシンプルなことをしたくて地球に生まれてきたのに・・・・ややこしい時代に生まれてしまった。

社会システムにも適用しにくい。

ヒト集団にはもっと適用しにくい。

感情面はよく分からない。

「食べて寝てうんこする」だけで幸せになっている自分という存在にちょっと愕然とした。

そしてどんな存在でも「よいよ~」と受け入れている地球に感動した。

ヒーリングなどを学ぶにしたがって必ず私が立ち止まってしまうことがあった。

「ヒトのため」という‘カテゴリーはヒト‘みたいな部分になるととたんに興味を失うのである。

でも・・・今はちょっと違う。

‘カテゴリーは地球‘にしてみたら、なんだかすごく過ごしやすいのだ。

私が持ち得ているすべてのことは「地球」を愛しているからこそ持ちえたのだな、と実感するのである。

ヒトを愛しているから、ではないのだ、と。

地球を愛しているその愛でヒトを眺めると窮屈なのだ。

ああでもないこうでもないと。

恐竜を例えれば、草を食んでいるときにねずみが足元にちょろちょろしてたって怒りはしない。今地球にいる生物もみなそうである。ライオンでさえお腹がすいていなければ目の前に獲物がいても襲わない。

しかし、人間は違う。

ヒトだけの大義名分で生きている。

そこに興味がないのだ。

でも、それらの存在を地球は受け入れている。

ヒーリングやスピリチュアル、あるいは宗教学で「人類のために」と自然を眺めるヒトビトがいまだにいる。そうじゃないだろ、と思う。

地球がなかったら人類もないんだよ、と。

「人類が生き残るためには自然を大切に」・・・・どこまで小さい愛なんだろか、と。

地球は恐竜がいなくても地球だし、ヒトがいなくても地球は地球である。

物質的に「星」としての寿命が来ればただそのカタチを終えるに過ぎない。

でもだからこそ「今」のこの地球は美しいのである。

ヒトの立場で地球や自然を眺めると「どうにもできないもの」ということなのだろうが・・・。

時々・・・私は思う。

「私も人間なんだよな」と。

では・・・この感覚をどうすればいいんだろう、と。

地球のために何かをする??まだどうすればいいかは分からない。

新たな可能性としてはいろいろと見えてきてはいる。

今年見え始めた可能性や気づきを来年からの日々で明確化されていくのだろうと感じる。

新規

ブログを新規に衣替え。

いろいろと進んできた中で、「手放すもの」がはっきりするとブログも新調です。

今回のブログはある意味「新しい自分」がテーマ。

今までのことへの考察や気づきを含めて、てらいなく書いてみたい。